香辛料戦争;英国Vs和蘭=06=

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サムライ達・・・・

オランダ東インド会社はアンボイナ島のアンボンに堅牢な要塞を築いていた。 イングランド東インド会社は、ここではその要塞の中の一角に商館を置くことを許可され、細々と業務を営んでいた。 アンボン島(Pulau Ambon)は、インドネシア東部にある。 バンダ海の北側に位置し、セラム島の南西に位置する。 モルッカ諸島の一部であり、面積は775平方キロメートル。 火山島でもあり、最高所の標高は1,225m。 東西方向に長い陸地が二つ並び結ばれた形状をしており、島の長さ約50kmに対し、約2kmの地峡で二つの陸地が結ばれている。

1513年、最初のヨーロッパ人としてポルトガル人人が初めてアンボン島に上陸し、テルナテ島でポルトガルが追い出されるまで、ポルトガルのマルク諸島における活動の中心となった。 しかし、島の東北部の土着イスラム教徒によって定期的に襲撃を受けていた。 ポルトガル人は1521年に工場を設立するが、1580年まで平和的に所有はできなかった。 実際ポルトガルは、現地の香辛料貿易を統制できずに、ナツメグ生産の中心バンダ諸島において権限を獲得する試みに失敗した。 1605年、ステフェン・ファン・デア・ハーゲンが無血で砦を引き継いだ時には、すでにポルトガル人はオランダ人によって追い出されていた。 そして、1610年から1619年まで、バタヴィア(現在のジャカルタ)が設立するまでの間、アンボンオランダ東インド会社 (VOC) の本拠地であった。

オランダ東インド会社はアンボイナ島で30名ほどの日本人浪人を傭兵として雇っていた。 日本では1614年に大坂夏の陣が終わり、豊臣家が滅亡。 大規模な戦争が終結したため、大量のサムライが失業した。 食いつめたサムライの中には海外に活路を求める者も多数いた。 フィリピンやベトナム、カンボジア、タイなどには立派な日本人町も形成され、経済活動を行う元サムライも多かった。 アユタヤ(タイ)で日本人町の頭領となった山田長政はあまりにも有名だが、彼もまた、傭兵あがりだったと言われている。

彼らは各国で現地に馴染み、日本から渡ってくる朱印船が必要とする物資の手配を行う商社のような役割を果たしていた。 朱印船に乗ってやってくる日本人にとっても、現地の事情に明るい商社マンたちは、さぞかし有難い存在だったに違いない。

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  しかし1635年、幕府が本格的な鎖国の前触れとして日本人の海外渡航、ならびに在外邦人の帰国を一切禁じたため、彼らは朱印船貿易というライフラインを失ったのみならず、帰国することも叶わなくなった。 当時の在外邦人のほとんどが男性であった。 そのためやむなく現地の女性とくっつき、現地社会に静かに埋没していく運命にあった。 一方で海賊となった浪人も多かったし、海賊に傭兵として雇われる者もあった。 反対にその海賊から身を守るための傭兵として雇われる者も少なくなかった。 イングランドの東インド会社も彼らを雇ったし、オランダの東インド会社もまたしかりであった。 そして、はるか南の、クローブが取れなければ歴史に登場することなどなかったはずのアンボイナという、このちっぽけな島にまで、浪人たちがはるばる出稼ぎに来ていた。

そのアンボンで事件は起こる。 1623年2月10日、夜半。 オランダ側に雇われた傭兵の中に七蔵という平戸出身の若者がおり、しきりに要塞の防御力や配置人員のことなどをオランダ兵に尋ねてきた。 七蔵は職務に忠実な男で、自らが警護する要塞が何時間、攻撃に耐えられるのかを知っておきたかっただけだと言われる。 しかし、その真面目さが裏目に出た。

オランダ人は、「偽りの友人」たちがいつか反乱を起こすのではないかと警戒していた。 天井のシミがいつしか人の顔に見え始め、それがやがて怪物の形相となっていくように、次第に恐怖がオランダ人を支配し始めていた。 そんな矢先の七蔵であった。 先のオランダ兵が上司に、要塞内にスパイがいるかもしれないと報告した。 上司はたちまち反応した。 「その男を今すぐここへ連れて来い」

オランダ側の尋問に、正直に答えた七蔵であったが、警戒を強めるオランダ人は納得しなかった。 七蔵は拷問にかけられた。 「イングランド人と協力して要塞を奪取するつもりなのだろう」。 オランダ人たちは、七蔵の口から吐かれるべき証言を予め用意していた。 今は傭兵に身をやつしている七蔵だが、元は立派なサムライである。 壮絶な火責め、水責めの拷問にも耐えた。 しかしある時、朦朧とする意識の中で、遂にオランダ人たちの恐怖心が作り上げた存在しない計画の存在を認めてしまった。

これが「自供」とされた。 オランダ人たちは自らが描いたシナリオに「やはり…」と震え上がった。 そして翌日からイングランド人12名に対する言語に絶する陰惨な拷問が始まった。 イングランド人も耐えに耐えた。 しかし、その忍耐力はオランダ人の「馬バエ」に対する憎悪を増幅させる以外の働きをしなかった。 彼らはロープで吊り上げられ、全身をゆっくりと焼かれた。 また、帆布を首から上に巻かれ、上から水を鼻が隠れるあたりまでたっぷりと注がれた。 窒息したくなければ水を飲み続けなければならない。 やがて水も咽を通らなくなり窒息、失神した。 再び起こされてはまた水を飲まされ、という拷問が繰り返された。飲み込んだ水によって人の身体は3倍くらいに膨れ上がったという。 また、手足の切断も行われた。

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 やがて彼らは苦しみの中で、オランダ側が予め用意していたシナリオ通りの証言に導かれていく。 例え証言の先に待つものが死だと分かっていても、目の前の苦しみから逃れられるのが何よりの幸せであった。一方、別室では七蔵以外に8名の日本人に対し、同様の拷問が繰り広げられていた。 戦国時代を生き抜いてきたタフなサムライたちもよく耐えた。 しかし拷問は凄惨を極めた。 1人、2人と陥ちていき、やがて全員陥落。 この時、イングランド商館の中に保管されていた武器とは刀が3本にマスケット銃(火縄銃)2挺。浪人たちの助太刀があったとしても、200人の屈強なオランダ人と現地人による守備兵と、オランダ人の支配下にある400人程の現地人住民相手に反乱を起こすには、あまりにも現実離れした戦力であった。 しかし現実が何であれ、現にイングランド人12名と日本人傭兵9名は反乱計画の存在を認めた。

問題があるとすれば、被告の自供が壮絶な拷問の結果だった、ということだけだった。 イングランド人12名、日本人9名、そして資料がないため理由は分からないがポルトガル人1名が有罪とされ、死刑が求刑された。 しかし、イングランド人全員を処刑してしまっては、残されたイングランド商館の始末をする者がいなくなることに気づき、急遽2名がその役をあてがわれ、命拾いすることになった。 この2人が命からがらパタヴィア(現在のジャカルタ)にまで逃げ伸びたことで、アンボン島で起きた事件の詳細がイングランドにも、後世にも伝えられることとなる。

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=資料= アンボイナ事件とは、

1623年モルッカ諸島アンボイナ島(アンボン島)にあるイギリス商館をオランダが襲い、商館員を全員殺害した事件である。別名はアンボン事件。これによりイギリスの香辛料貿易は頓挫し、オランダが同島の権益を独占した。イギリスは東南アジアから撤退し、インドへ矛先を向けることとなった。
英語表記の「Amboyna massacre」は「アンボイナの虐殺」を意味する。

アンボイナ島(Amboyna Island、アンボン島Ambon Islandとも)は、インドネシアモルッカ諸島南方のセラム島の南西に位置する小島で、クローブなどの香料を産することで知られる。ヨーロッパで珍重されたこの香料を求めて、同島への進出を図る国が相次いだ。
1512年ポルトガル人アントニオ・ダブリウが進出して以来、アンボイナ島の香料はポルトガルが独占した。しかし、1599年にオランダ人ファン・ワールワイクがポルトガル勢を駆逐し、1605年2月、ニュー・ヴィクトリア砦を構築して支配権を確立した。これに対し、イギリスも1615年に進出して香料貿易を行い、激しく競争した。
事態を収拾するため、英蘭両国の政府は1619年に協定を締結し、

  • 香料貿易は今後両国が共同で行い、利益の分配に際してはオランダの既得権益を尊重し、3分の2をオランダが、残り3分の1をイギリスが得ること
  • これまで両国が占領した地域の領有権は現状のまま留め置くが、今後征服した土地は両国で折半すること

などを相互に確認した。しかしオランダの現地当局はこれを無視して取引を行い、激怒したイギリス人はバタヴィアでオランダ人を駆逐。両者の確執は一向に収まる気配がなかった。

この頃、東南アジアには日本人が多く進出し、アユタヤプノンペンには日本人町が形成されるほどであった。アンボイナ島にも日本人が居住し、傭兵として勤務する者もいた。 1623年2月23日の夜、オランダ側の傭兵・七蔵が衛兵らに対し、城壁の構造や兵の数についてしきりに尋ねていた。これを不審に思ったオランダ当局が、七蔵を拘束して拷問にかけたところ、イギリスが砦の占領を計画していると自白。直ちにイギリス商館長ガブリエル・タワーソンら30余名を捕らえた当局は、彼らに火責め、水責め、四肢の切断などの凄惨な拷問を加え、これを認めさせた。3月9日、当局はタワーソンをはじめイギリス人10名、日本人9名、ポルトガル人1名を斬首して、同島におけるイギリス勢力を排除した。なお、事件当時オランダの東インド総督であったヤン・ピーテルスゾーン・クーン(Jan Pieterszoon Coen、1587年 – 1629年)は、オランダの東インド貿易独占を主張し、政府の対応を弱腰と非難していた。このため、事件は彼の仕組んだ陰謀であるとの説もある。

この事件は程なくイギリス本国に伝わり、英蘭両国の間で進行していた東インド会社の合併交渉は決裂、ついには外交問題にまで発展した。事件発生から実に31年後の1654年、オランダ政府が8万5000ポンドの賠償金を支出することで決着した。 事件をきっかけに、東南アジアにおけるイギリスの影響力は縮小し、オランダが支配権を強めた。しかし、かつて同量のと交換されたこともあったほどの高級品だった香料の価格は次第に下落。それに伴い、オランダの世界的地位も下がり始めた。対して、新たな海外拠点をインドに求めたイギリスは、良質な綿製品の大量生産によって国力を増加させた。

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===== 続く =====

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