カティ・サーク号;数奇な運命=01=

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 カティサーク (Cutty Sark)号の命名は、ロバート・バーンズ (Robert Burns) 作の「タモシャンター」Tam o’ Shanter に登場する魔女に由来する。 《農夫のタムが馬にのって家路を急いでいると、悪魔や魔法使いが集会をしているところに出くわした。 そこでタムは、カティサークを身にまとった若くて妖艶な魔女に魅了され、思わず手を出そうとした。 そのとたん、にわかに空が暗くなり、魔女たちがタムを捕まえようとした。 タムはにまたがり、命からがら逃げ出した。 カティサークの魔女は馬の尾をつかまえたものの、尾が抜けてしまったため、タムは逃げのびることができた。》 とあり、カティサーク号の船首像はカティサークを身にまとった魔女であり、その手には馬の尾が握りしめられている。

現存する唯一のティークリッパーとしてロンドン近郊のグリニッジで保存展示されているカティサーク(Cutty Sark)は19世紀に建造された英国の快速帆船であった。 中国からイギリスまで紅茶を輸送する「ティークリッパー」として、いかに速く一番茶を届けるかを競った。 しかしながら、その建造時期はスエズ運河の完成直後であったため、ティークリッパーとして活躍した期間は短い・・・・・・・。

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世界を駆け巡った悲報 

2007年5月21日未明、ロンドンの観光名所として人気の高いグリニッジは時ならぬ喧騒と、煙と異臭に包まれていた。 同地のシンボル的存在のひとつといえる、カティ・サーク号が炎上したのである。 同日の早朝に出火、鎮火まで2時間ほどの出来事だったとはいえ、炎は甲板と工事用足場を燃やし尽くした。 このニュースが、朝から英国中のニュース番組を占拠したことはまだ記憶に新しい。 放火の噂も立ったものの、様々な捜査の結果、現場に放置されていた業務用掃除機の電源が出火原因であることが判明している。

この後、世界中から船の安否を気遣う声が寄せられたが、幸運にも火災発生時は修復作業中のため船体の部材や調度品は取り外されており、実際に被害を受けたのは5%に満たなかったという。 昨年4月に修復を終えたカティ・サーク号の雄姿を我々が再び目にすることができたのは、非常に幸運なことであったといえるだろう・・・・・「幸運」―。  順に述べていくが、カティ・サーク号は、実に数多くのトラブルや不幸に見舞われた。 それにもかかわらず、そのたびに「しかし、幸運にも…」という事後談がつき、挽回や復活を果たし、今に至っている。

この一見不運そうで、実はこれほど強運な船は数少ないと思わせる、カティ・サーク号は、極東の中国から英国へと紅茶を運搬する高速帆船「ティー・クリッパー」として誕生した。 ところが、進水式の5日前にはスエズ運河が開通(1869年11月17日)し、時代は帆船から蒸気船へと移り変わろうとしていた。 カティ・サーク号が産声をあげた時、船舶史は、帆船時代の最終章に既に入っていたのである。 ティー・クリッパーとしての現役時代は8年あまりと短かく、その後は流転の日々を経ることになる。

だが、振り返ってみると唯一現存するティー・クリッパーは、このカティ・サーク号だけなのだ。 どうしてこの船が現在まで生き残ることができたのか。 その数奇な運命をたどってみることにしたいが、まずはティー・クリッパー全盛時代とこの美しき帆船の誕生前夜にまでさかのぼってみよう。

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・・・・・資料・・・・・・スエズ運河開通

スエズ運河の建設に、圧し掛かった多くの技術的、政治的、財政的問題は克服されたが、それでも運河の総建設費は当初予想の二倍に膨らんだ。そして1869年11月17日午前8時、運河は開通した。「東と西の結婚」と形容された開通式では、フランス皇后ユージェニーが乗る皇室所有のエーグル号が先頭を切り、イギリスのP&O liner社船が続く総勢48隻がポートサイドから運河を渡り、オーストリア皇帝などヨーロッパ中から1000名以上の賓客が出席した。

1867年以来、日本に駐在した英国外交官ミットフォードは、1870年に帰国のため、シンガポールからマルセイユまで搭乗したフーグリー号が「開通式に披露行事として通った船を除けば、我々の船が、営業開始後の一番目の船」となったと回顧としている。 運河開通直後、スエズ運河会社は財政難にあった。 完工は1871年まで長引き、当初の2年間は運河利用数は予想を下回った。 収益を改善するためレセップスは、1854年にイギリスの商船法へ導入された理論上の総トン数で通行料を決めるムーアサム・システム(Moorsom System)に加え、船舶の実積載能力を算出基礎とする追加口銭(tonneau de capacité)を上乗せする改訂を行った。 続いて行われた商業上および外交的交渉の結果、コンスタンティノープルで国際委員会が開かれ、1873年12月18日付け議定書にて純トン数 (net tonnage, NT) の基準と料金表が定められた。 これは、現在でも用いられるスエズ運河トン数とスエズ運河特殊トン数(SCSTC)の起源となった。

運河開通は世界貿易に劇的な効果をもたらした。 6か月前に完工していた大陸横断鉄道と接続することで、地球を一周する時間は大きく短縮された。さらにヨーロッパのアフリカ植民地化に拍車をかけた。 運河建設には一貫して反対して来たイギリスだったが、蓋を開けてみるとスエズを通過する船の8割がイギリス船籍だった。 なお、1873年に日本の岩倉使節団も帰路に、スエズ運河を航行しており、当時の運河の様子が記録されている。

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===== 続く =====

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