カティ・サーク号;数奇な運命=02=

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  中国とヨーロッパとの貿易を東インド会社が独占していた時代には、紅茶は18ヶ月ないし24ヶ月かけてロンドンまで運ばれてきた。 この独占が1834年に終了し、中国のいくつかの港で自由貿易が出来るようになると、多くのヨーロッパの船主が中国貿易に参入してきた。 とりわけ、イギリスの国民的な飲物である紅茶をいかに新鮮なまま届けるかには高い関心が集まった。 最初に届けられたその年の一番茶は高値で取引され、船主や船長は莫大な利益と名誉を得ることができた。

1850年には、ついに年内に新茶が届けられた。 12月3日アメリカの新鋭帆船オリエンタル号が、1500トンの新茶を積み込んでロンドンに入港し、船価の2/3にも及ぶ運賃を稼いだのである。 このニュースはイギリスにとって大きな衝撃となり、このティーレースに参戦すべく、TaepingLeanderBlackadderHallowe’enThermopylaeといった紅茶輸送のための快速船ティークリッパーが多数建造された。
クリッパーは外洋で高速が出せるよう、通常の帆船に比べ前後に細長い形状をしていた。 港湾内で小回りの利かないこのような船型が可能となった背景には、蒸気機関を備えたタグボートが普及してきたことが挙げられる。

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紅茶レース時代、到来

ウィスキーのラベルに描かれた3本マスト姿でお馴染みのカティ・サーク号。 この船が建造されたのはヴィクトリア朝時代の1869年だった。 英国人の紅茶好きについてはいまさら言及するまでもないが、この時代はかつて高級品であった紅茶が一般にまで広まり、茶葉の需要が大幅に増えた時期にあたっている。 そしてこの紅茶を中国から輸送していたのが帆船である。 紅茶と言えば現在はインドが最大の生産国であるが、この時代にはまだインドでの生産は行われておらず、中国からの輸入に頼るしかなかった。

乾燥品である紅茶は保存状態さえ良ければ3年はもち、輸送に多少時間がかかっても品質が大幅に低下することはない。 このため当時紅茶貿易を独占していた東インド会社は150年以上の長きにわたってのんびりしたペースで茶葉を運んでいた。 しかし、19世紀初頭に軍用の小型帆船をもとにした米国の大型クリッパー(語源は、go at a clip=「高速で一気に進む」の意)と呼ばれる高速帆船が誕生し、米国西海岸で起こった金採掘ブーム、いわゆるゴールド・ラッシュとそれに伴う輸送船の需要急増によって普及していく。

そして英国人商人のチャーターしたクリッパー船が、香港から積んだ茶葉をたったの3ヵ月余りでロンドンに運ぶというニュースが伝わる。 これまで片道1年以上かけていたことを考えると劇的な進歩である。  新鮮な紅茶が味も香りも良いのは当たり前。 そして現在でも人々がボジョレー・ヌーボーの解禁日を心待ちにするなど「初モノ」を有り難がるように、人々が豊かになった大英帝国全盛期、新しモノ好きの英国人はこれに飛びついた。 こうして新茶にはプレミアがつき、次第に高値で取引されるようになっていく。

金の卵を米国に奪われてはたまらない。 ここにきてようやく英国は紅茶運搬用のクリッパー船の建造に乗り出したのだった。 そして新茶をいち早く英国へと届けた船には多額の報奨金を約束し、そのスピードを競わせるようとする。「良いものをできる限り早く」はいつの時代でも人々が望むところ。こうして「ティー(紅茶)・レース」時代がスタートした。
余談ながら、カティ・サークの登場よりさかのぼること3年、1866年に行われた有名なティー・レース「ザ・グレート・チャイナ・レース」の記録が残されている。 同日同時刻に中国を出航した英国籍のティー・クリッパー5艘がデッドヒートを展開。 やがて、エリエル号とテーピング号が追いつ追われつの接戦を繰り広げた末に99日間でロンドンにほぼ同時に入港。 艀(はしけ)による操船の差でテーピング号が勝利したものの、多額の報奨金は双方で分け合われたという。

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・・・・・資料・・・・・クリッパー(Clipper)とは、19世紀に発達した大型帆船のこと。 快速帆船と訳されることもある。 大部分は米国と英国の造船所で造られたが、他の国でも数船 建造された。 積載量よりも速度を重視していたことから、一般的に全長に比して狭い船体と、多くのマストと帆を持っていた。 多くはシップ帆装で多くの横帆を持ち、スピードを得るために広大な総帆面積を誇る。 そういった外観から熱狂的なファンが多く、帆船模型では定番となっている。 イギリスのカティーサークを始め、保存されている船も存在する。

クリッパーは1843年、好景気により急激に増える茶の需要に応じる形で、アジアからの輸送を迅速に行うために使用され始めたとされる。 クリッパー需要は1843年にカリフォルニア、1851年にオーストラリアで金が発見されると加熱していくが、1869年に大陸横断鉄道スエズ運河が完成すると急速に衰退していった。

イギリスで利用されたクリッパーは、輸送する荷物によりティークリッパー(茶)、ウールクリッパー(羊毛)と呼ばれる。 これらの輸送は通常18~24ヶ月を要していたが、クリッパーの登場によって100~120日前後での輸送が可能となった。 こういった船の航海は商機を得るために植民地~イギリス本国間で輸送競争(レース)となることがあり、後に「○○~○○間を○日で到達」といった最速記録が伝説的に語り継がれることとなった。 特にライバル関係にあったカティーサークとサーモピレーは有名で、1855年にはカティーサークがシドニー~ロンドン間を72日という最速記録を打ち立てている。

アメリカで利用されたクリッパーは、19世紀前半、東海岸からゴールドラッシュで賑わう西海岸へ人員や資材を、反対方向へ金を運ぶための船であり、南米ホーン岬回りやパナマ地峡経由の航路をいかに早く到達できるかが重要視された。 オランダで利用されたクリッパー(ダッチクリッパー)は、ジャワ島からの茶の輸送と、郵便配達のために使用された。 ただし、オランダで使用された「クリッパー」を名乗る帆船は100を超えるが、一般的であるシップ型ではないバーク型やスクーナー型などの帆装の船が半数含まれている。 オランダのクリッパーは他国と比較して長く、1873年まで建造されていた。

1830年代後半には、スコットランドの造船会社Alexander Hall and Sonsが初のイギリス国内建造の高速帆船アバディーン(Aberdeen)を建造する。 この型の帆船はイギリスにおいて広く使用され、アジアとの間で茶、スパイス、アヘンなどの輸送に広く使われるようになる。1845年には、特に速度を重視するために、貨物の積載能力を極限まで犠牲にしたクリッパー・レインボー(Rainbow)がニューヨークにおいて建造される。 レインボーのような方針のクリッパーがイギリス型のクリッパーと認識されるようになり、見た目も重視した新しいデザインの船が建造されるようになる。 1870年までに25~30隻が建造されたと見積もられている。 また、耐久力を高めるために木造の船体に金属の板を張る技法も誕生し、後にウィンドジャマーへと発展していった。

1869年のスエズ運河開通により、茶の取引はクリッパーから蒸気船へと主体が移っていった。 それにより、クリッパーはオーストラリアやニュージーランドとの間での移民・羊毛輸送に使用されることとなるが、1880年代を最後に需要が減っていき20世紀に入ると老朽化したクリッパーは徐々に役割を終えていった。

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===== 続く =====

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