カティ・サーク号;数奇な運命=03=

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カティサークの誕生, ライバルもスコットランド生まれ

上記のごとく、このティー・レース全盛期、ロンドン在住のスコットランド人船主ジョン・ウィリス ( John Willis )は、スコットランド中西部ダンバートンの造船会社「スコット&リントン社」に新しいティー・クリッパーの製造を発注する。 彼は1850年代より LammermuirWhiteadderといったティークリッパーをティーレースに参戦させてきたが、勝利することは出来なかった。1868年,ジョン・ウィリスは、Scott & Linton 社に最速のティークリッパーの建造を依頼する。 同社のハークレス・リントン ( Hercules Linton ) の設計による船体は高い安定性を有し、他のティークリッパーに比べ荒天時の取り扱いが容易であった。 ところが「強度、積荷量、スピードに、より優れた船を」と、注文が次々に加わり設計の練り直しが繰り返されるうちに納期は遅れ、そのうちに「スコット&リントン社」は経営難に陥り、債権者が造船プロジェクトを引き継ぐという事態になる。こうして、難産の末に生まれたのがカティ・サーク号である。 

1869年11月22日、ダンバートン ( Dumbarton ) にて進水式がとり行われる。 皮肉なことに前週の11月17日にスエズ運河が開通したところであり、帆船時代は急速に終焉を迎えようとしていた。 無事進水式を迎えた船は年明けまもなくクライド川を下ってロンドンの大貿易拠点イースト・インディア・ドックへ向かい、中国へと旅立っていく。 そして8ヵ月後。初の船旅を終えたカティ・サーク号は600トンという膨大な量の紅茶をロンドンへ持ち帰った。 上海からロンドンまで110日と、なかなかの成績ではあったのだが、1年先輩で同じくスコットランド生まれの帆船、サーモピリー号(Thermopylae)のスピードには残念ながら並ぶことができなかった。

カティサークは、中国からイギリスまで107日から122日で紅茶を輸送することができた。 ティークリッパーとして極めて優秀な成績であったが、最短輸送期間の記録を更新することも、ティーレースに勝利することもできなかった。

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18691122日、ダンバートン ( Dumbarton ) にて進水式がとり行われる。 皮肉なことに前週の1117日にスエズ運河が開通したところであり、帆船時代は急速に終焉を迎えようとしていた。

無事進水式を迎えた船は年明けまもなくクライド川を下ってロンドンの大貿易拠点イースト・インディア・ドックへ向かい、中国へと旅立っていく。 そして8ヵ月後。初の船旅を終えたカティ・サーク号は600トンという膨大な量の紅茶をロンドンへ持ち帰った。 上海からロンドンまで110日と、なかなかの成績ではあったのだが、1年先輩で同じくスコットランド生まれの帆船、サーモピリー号(Thermopylae)のスピードには残念ながら並ぶことができなかった。

カティサークは、中国からイギリスまで107日から122日で紅茶を輸送することができた。 ティークリッパーとして極めて優秀な成績であったが、最短輸送期間の記録を更新することも、ティーレースに勝利することもできなかった。

カティサークの前に立ちはだかったサーモピレーである。 さらに2年後の1872617日、奇しくも2艘が上海を同日の同時刻に出港するという運命の日が巡ってくる。 カティサークとサーモピレーは熾烈な競争を演じた。 両船共に617日に上海を出港。 インド洋まではふるわなかったものの、その後カティサークは南東の貿易風を捕らえると、サーモピレーを最大400海里と大きく引き離した。 ここですんなり勝利して終わり、といかないところがカティ・サーク号。 不運にも嵐に巻き込まれ、817日、悪天候によりカティサークは舵を破損してしまった。 舵を失い操縦不能に陥ったカティ・サーク号を救うために、乗員たちが即席で代用の舵を作り上げ航海を続行したというのは驚異的である。

応急処置が行われたものの、その間にサーモピレーに追い抜かれてしまった。 ティー・レースとしては残念な結果であったのだが、結局、サーモピレーの115日に遅れること1週間、カティサークは122日でイギリスに到着した。 カティ・サーク号の乗組員たちのシーマンシップ(船乗り精神)については、非常に高く評価されるべき出来事であったといえよう。 しかし、帆船同士の白熱したティーレースとは裏腹に、この頃を最後に帆船による紅茶輸送は急激に衰退して行くこととなる。

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紅茶輸送の衰退後、「何でも屋」として世界を放浪 

こうして、華やかな話題をふりまいていたティー・クリッパーたちだが、変化の波が容赦なくそれらに襲い掛かろうとしていた。 帆船は石炭を搭載する必要がないため積載量が大きく、給炭地に寄航する必要もない。 また蒸気船の船体に用いられる鉄は紅茶を劣化させると信じられていたために、蒸気船が普及した後も、しばらくの間は帆船が紅茶輸送の主役であった。 しかしスエズ運河の開通により、状況が大きく変化した。 スエズ運河はほとんど無風であり、帆船が通過できないのである。 そのため、紅茶輸送の主役も蒸気船へと移行していく。

先にも述べたように、地中海と紅海を結び、アフリカ大陸を回り込まずにヨーロッパとアジアを行き来することのできるスエズ運河が開通したことで、高速船の時代は帆船から蒸気船へと急速に移りつつあった。スエズを通過することで船旅の期間を大幅に短縮することができたものの、運河は、帆船が航行するに足りるだけの風が吹くことが稀で、帆船では通過することができなかったのである。 

カティ・サーク号の誕生から間もない1870年当時に59艘あったという英国籍ティー・クリッパーは、7年後には9艘までに激減する。 すらりとして見目麗しい帆船に比べてその姿はやや不格好かもしれないが、帆船の2倍に及ぶ紅茶が積載可能、輸送スピードでもひと月分は上回るという蒸気船の前に帆船はなすすべはなかった。 ついに1878年、紅茶貿易の要地であった中国・漢口へ到着したカティ・サーク号は、積み込むはずの紅茶を蒸気船に奪われるという屈辱的な事件に遭遇する。 仕方なく長江(揚子江)を下り上海の港へと赴くものの、なんとここでも蒸気船に荷を奪われた後だった。 ティー・クリッパーとしての面目は丸つぶれである。 さらに追い打ちをかけるように、この船旅の要である、当時の船長ティップタフト(Tiptaft)が上海で急死してしまったのだ。 

手ぶらでロンドンに戻る事はできない。 亡き船長の後を引き継いだ一等航海士の指揮のもと、カティ・サーク号は日本の石炭を求め長崎へ向かう。 石炭を積んで上海に戻る頃には新たな紅茶が届いているであろうとの目算であったが、その望みもむなしく消え去りついに船は立ち往生してしまう。 遥か中国から新茶をふんだんに積みロンドンへ意気揚々と凱旋する、ティー・クリッパーの栄光の日々は過ぎ去ってしまったのである。 

  カティ・サーク号は故郷の英国ではなく、米国ニューヨークへと仕方なく向かう。 この時点からカティ・サーク号はその時々の荷を 何でも積み込み各地の港を渡り歩くという「浪人時代」を送ることになる。 1878を最後にカティサークは紅茶輸送を引退し、以後5年間はニューヨークへのジュートの輸送、ロンドンへのバッハァローの角の輸送など、様々な業務に従事している。 やがて、斜陽産業となりつつあった、紅茶の帆船貿易に見切りをつけた船主ジョン・ウィリスは、1883年に入ってカティ・サーク号を当時世界最大の羊毛産出国であったオーストラリア~英国間の羊毛輸送に従事させることにする。 輸送船としてのピークを越え、引退への道を歩み始めたかに思われたカティ・サーク号は、ここで返り咲きともいえる大活躍を見せるのである。

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===== 続く =====

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