カティ・サーク号;数奇な運命=04=

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 サーモピリー号との幻の再対決、ポルトガルに売られた老船

1883年以降、カティサークはオーストラリア-イギリス間の羊毛輸送に従事する。 羊毛輸送は夏にオーストラリアへ向かい、翌年の初めに荷を積んで戻ってくるというのが常であった。 羊毛を積み、初のオーストラリア~英国航路に臨んだカティ・サーク号は、なんとロンドンまで84日で渡りきり、同時期にオーストラリアを出航した船に25日以上もの差をつけて帰還するという快挙を成し遂げたのだ。 翌年は自己記録をさらに更新して80日。 1885年には船長が交代すると、また記録を伸ばし、シドニーからロンドンまで72日という大記録を打ち立てる。 同じく羊毛輸送に転用されていたサーモピレーとデッドヒートを演じたが、今度はカティサークが勝者になった。 このとき舵をとったのは、後にカティ・サーク歴代船長の中でも最も優れていたと称されたノーフォーク出身のリチャード・ウジェット(Richard Woodget)。 馬と騎手に相性があるように、カティ・サーク号も良き船長を得てその才能をいかんなく発揮できたという訳なのだろう。

そして、1889年、79日間で航海では、最新鋭の蒸気船ブリタニア (Britanniaであるが、1887年進水の同名船で、よく知られている1840年進水のブリタニアとは別) を追い抜くという快挙も達成している。これはティー・クリッパーとしての役割から引退した後、同じく羊毛輸送に従事していた紅茶輸送時代のライバル、サーモピリー号にも太刀打ちできない離れ業であった。かつてのレースでは惜しくも負けてしまったが、ここで勝負は大きく逆転したのである。

しかしながら、羊毛輸送は紅茶輸送に比べ利益が低く、また船齢を重ねるにつれメンテナンス費用がかさむようになってきた。 1895年、船主のジョン・ウィリスはカティサークをポルトガルに売却。ポルトガルではFerreiraと船名が改められたが、カティーサークと同義のA Pequena Camisolaという愛称でしばしば呼ばれた。 要はお払い箱になってしまった訳である。 そして、1916年、南アフリカへの石炭輸送中に、カティサーク ( Ferreira ) は帆柱を破損してしまった。 第一次世界大戦中の資材不足の折でもあり、マストの補修はなされず、2本マスト船に改装されることになった。=無論、それまでは3本マストであった=

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 老朽ティー・クリッパー船の末路としてはお決まりのコースともいえるのだが、同じくポルトガルに売却された長年のライバル船サーモピリー号は、その後まもなく、リスボン沖でポルトガル海軍の砲撃訓練の標的となり、この地で一生を終えてしまう。 一方のカティ・サーク号は船名をまず「フェレイラ」と変えられ、その後も船主や名前を変えながら、ポルトガル船籍の船としてブラジルやバルバドス、東アフリカの植民地、そして米国の間を結び、27年間の長きを過ごすのである。

※サーモピレーは、1867年9月16日起工され、船体完成1868年6月19日、8月19日に進水したのち、9月17日に竣工した。 設計はロイズ船級協会のバーナード・ウェイマス技師(Bernard Waymouth)、建造はアバディーンのワルター・フッド・アンド・カンパニー社(Walter Hood & Co)である。 船名はペルシア戦争の古戦場であるテルモピュライの地名からとられた。 船体は鉄製のフレームに木材の外板を張った木鉄混合構造である。大きな荷室容積を確保し、安価に建造できることで、サーモピレー、カティーサークを含めて、当時のティークリッパーでは一般的な構造である。 サーモピレーでは、木材は米松(イエローパイン)材、およびチーク材が用いられていた。 船体は緑色、マストは白色に塗られ、帆は全て純白であった。

サーモピレーの帆装形式は3本マストのシップ型であり、順風時の高速性を優先した構造である。外洋を高速で帆走することに設計の主眼がおかれ、最高巡航速度は14.5ノット(時速約27km)、最高速度は20ノット(時速約37km)に達したと言われる。

初代船長ロバート・ケムボール(Robert Kemball/1823-87)の指揮の下、サーモピレーは1868年11月8日処女航海に出帆した。イングランドテムズ川河口の港グレイブスエンドから、オーストラリアのホブソンズ・ベイ(メルボルン近郊の港)まで63日で航海し、この航路の最短記録を更新。 1869年2月10日にはオーストラリアのニューキャッスルを出港、1869年3月13日中国の上海に入港。 この航路を31日で航海し、またも記録を更新。 さらに、1869年7月3日、中国・福州を出帆したサーモピレーは、わずか91日の航海で9月30日にロンドンに到着し、ここでも最短記録を更新している。
航路の最短記録を次々に塗り替えたサーモピレーは、一躍、最速の帆船として注目を浴びることになった。この後も、福州/上海・ロンドン間の紅茶輸送航路では、100-110日前後での航海を続けている。

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カティーサークとの対決

1872年には、カティーサークとの有名な紅茶輸送競争が展開された。 1872年6月18日、両船は同時に上海を出港、貨物として紅茶を積載し一路ロンドンを目指した。 ちらの船も、速達を優先し積み荷はやや減らしていた。

上海を発した直後、東シナ海はほとんど凪の状態であり、両船は船足の遅さに苦しみ、ほとんど付かず離れずの状態にあった。 スンダ海峡を抜けるときには、サーモピレーがややリードしていたものの、その差はわずか2.4kmほどである。 インド洋に入り、貿易風の影響を強く受けるようになると、カティーサークが一気にサーモピレーを引き離し、サーモピレーは8月14日には650kmちかく引き離されていた。

ところが、この日、強風で舵を失ったカティーサークは、ケープタウンでの修理を余儀なくされる。 これに対し、順調な航海を続けたサーモピレーは抜き返し、10月11日ロンドンに入港し、逆転勝利を収めることになる。 カティーサークがロンドンへ入港したのは10月18日である。サーモピレーは115日、カティーサークは122日の航海であった。 もっとも、この競争でより高性能を発揮したのは、舵を失う難航にもかかわらず、7日遅れまで挽回したカティーサークであると評され、カティーサークとムーディー船長以下乗組員たちは、高く評価されることになった。 サーモピレーにとっては、その最速船としての名誉にやや傷が付く結果になったという。 そしてこの頃がティークリッパーの絶頂期だった。

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===== 続く =====

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