カティ・サーク号;数奇な運命=05=

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懐かしい故郷への帰還

時が過ぎ、まもなく船としての一生を終えつつあるかに思われたカティ・サーク号に思わぬ転機が訪れる。 1922年、嵐を避けるためにポルトガル船としてコーンウォール南部ファルマス港に停泊していた老カティ・サーク号を、ある人物が、見かけたことが発端だった。 この人物は、目の前にある年老いた貨物船が、かつては花形船として名を馳せた船であることを見抜き、何としてもこの船を英国に取り戻そうと決意したのだ。 この人物はウィルフレッド・ダウマン(Wilfred Dowman)。 かつて船長業で鳴らした彼は、若き見習い船員の時代に、海上で颯爽と自分の船を追い抜いていった美しい帆船のことを鮮明に覚えていたのだ。

ダウマンは、ただの「元船長」ではなかった。 夫人であるキャサリンは、絹織物業で巨万の富を築いた実業家コートールド家の出であったのだ。 カティ・サーク号は、ここでその強運ぶりを遺憾なく発揮したといえよう。 同号は、この千載一遇のチャンスを逃さなかった。 27年前に売り飛ばされた際の価格、そして老朽船としての商業価値を大きく上回る3750ポンドという高値で『身請け』され、英国に晴れて帰還することになったのだ。 イングランド南西部コーンウォールのファルマス港に英国船として帰り着いたカティ・サーク号は、嵐を切り抜けるために切り落とされたマストが修復され、塗装が改めて施されるなど大掛かりな改装と修復を経て、美しい姿を取り戻す。

そして夏季には見習い水夫たちが寝泊まりする訓練船として新しいキャリアを開始する。 同時にダウマンはこの船を観光客のために公開し、岸からボートで訪れる人々を受け入れることも始めたのだった。 カティ・サーク号の恩人であるダウマンが1936年にこの世を去ると、カティ・サーク号は、夫人、キャサリンによってケント州のテムズ岸グリーンハイズ(Greenhithe)にある海軍学校に5000ポンドの維持費とともに寄付され、航海学校 ( Incorporated Themes Nautical Training College )で練習船として使用された。

軍艦ウースター号に牽引されながらのこの旅が、カティ・サーク号最後の航海となった。

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 1954年、テムズ川に面するグリニッジに移され、保存展示されることになった。 保存事業は、カティサークトラストによって行われた。 ライバルのサーモピレーが1907年にポルトガル海軍の標的艦として早々と最期を迎えていたのに比べ幸運な晩年を迎えることになった。

英国が第二次世界大戦に参戦すると、爆撃の標的となることを避けるため、カティ・サーク号のマストはおろされて訓練生たちの緊急避難所となり、戦火が拡大すると訓練生たちとともにロンドン南東部に移された。皮肉にもこの地で多くの船が爆撃の被害を被るのだが、カティ・サーク号は無傷で生き残った。 舵が失われた時にも沈まず、異国で廃船となることもなく、激しい戦火をくぐり抜けた。 まことに強運な船であるとしかいいようがない。 しかし戦時中のメンテナンス不足から老朽化はさらに進み、ついに引退の時がやってきたのである。

そして、カティーサークは1957年6月25日から内部も一般公開されロンドン市民に親しまれるようになった。

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 晩年のサーモピレー

サーモピレーが、初めて茶を積んでロンドンに入港した日から1ヶ月半後、10年の工期を費やしたスエズ運河が開通した。スエズ運河を汽船で通れば、イギリスと中国は2ヶ月以内の日数で結ばれてしまうようになっていた。 航走速度では決して汽船に負けないティークリッパーたちだったが、ほぼ無風のスエズ運河は、帆船では通過することができないのである。 1870年代になると、ティークリッパーの時代は急速に終焉を迎えていった。

サーモピレーは、1878年を最後に茶輸送専従だった運用からはずれ、1881年に最後の茶輸送を行った後、オーストラリアからの羊毛輸送につくことになった。ライバルだったカティーサークなども同様に、ティークリッパーはこの航路に配転されることが多くここでも船同士での競争は起こったが、この航路も長くは続かなかった。羊毛輸送に関しては、いくら早く着いたところでさしたるプレミアも付かず、より確実な運航スケジュールが期待できる汽船が配船されれば、そちらのほうがより都合がいいのである。

1889年には、サーモピレーはホワイトスターラインを離れ、ロンドンのW.ロス・アンド・カンパニー社(W. Ross & Co)に売却され、ついで、1890年には、カナダ・モントリオールのレッドフォード社(Redford)へ売船された。カナダではアジアとカナダ西海岸を結ぶ航路で運航され、この航路での積荷は、もっぱらアジアからの米だった。

カナダ時代には、ミズンマストの横帆が取り外され、それまでの3本マストシップ型から、3本マストバーク型に帆装形式が変更されていたが、16ノット(時速約30km)で走る汽船エンプレス・オブ・インディアと3日間に渡って並走してみせたり、1893年にはビクトリア(カナダ)から、香港まで23日で航走する記録を残すなど、そのスピードに衰えはなかったようだ。

1895年、サーモピレーはポルトガル政府に買い取られ、名前をペドロ・ヌネス(Pedro Nunes)と改め、練習帆船となった。しばらく船員養成のための航海を続けていたが、これも1903年までで、その後は帆装を全て失い、給炭用のハルクになった。
1907年エストリル近郊、カスケイ湾での海軍イベントに参加したのが、サーモピレーの船として最後の仕事となった。 ポルトガル海軍のイベントの締めくくりに実弾射撃公開が行われ、その実船標的となったのである。ポルトガル王室一家臨席のもと、多くの賓客が見守る中、サーモピレーはポルトガル海軍艦艇からの砲弾が撃ち込まれた。サーモピレーは容易に沈まず、魚雷を撃ち込まれ、船体が炎に包まれるまで持ちこたえた。その残骸は、今も海底にあることが確かめられている。

 最速のティークリッパー論

サーモピレーとカティーサークがティークリッパーとして活動できた期間は短かったが、同一航路における航海の記録を比較すると、1871年はサーモピレーの105日に対してカティーサークは110日、1872年は115日に対して122日、1873年は100日対117日、1875年112日対123日(以上・上海ロンドン航路)であり、終始サーモピレーはカティーサークに対して優勢であった。同一航路でサーモピレーが、カティーサークに対して後れをとったのは、1876年の福州・ロンドン航路の118日対109日だけである。

この実績故に、「サーモピレーこそ最速のティークリッパーである」という主張も根強い。また、両船の速度差を、船の性能差ではなく、天才肌のサーモピレー船長ケムボールと、堅実なカティーサーク船長ムーディーの、性格の違いに求める向きもある。ライバルされるサーモピレーとカティーサークでありながら、実際に同じ時期に同じ航路を走ったのは1872年の1回きりであり、直接的な競争になったのもその1回きりのため、余計に議論は膨らむ。

この種の議論には、スコットランド・アバディーンを代表するサーモピレーと、イングランド・ロンドンを代表するカティーサークとの”地域対決”という側面もあり、英国流のいわゆる「パブ談義」の格好の題材になってきた。もっとも、この2隻は、どちらもスコットランドで建造され、サーモピレーの設計はイングランドのロンドン、カティーサークの設計はスコットランドのグラスゴーである。

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===== 続く =====

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