カティ・サーク号;数奇な運命=06=

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安住の地、グリニッジ そして 未来への航海

訓練船としての役目を終えたカティ・サーク号に、次の救いの手が差し伸べられた。 その手の主は、グリニッジ国立海事博物館の館長フランク・カー(Frank Carr)であった。 彼は行政と掛け合い、歴史あるカティ・サーク保存の為にグリニッジの爆撃跡の一部を確保する。 1951年、英国博覧会の一環としてデットフォードに展示されたカティ・サーク号は、英国海軍ゆかりの地グリニッジで永久保存されるという栄誉を受けることになる。 カー館長率いるカティ・サーク号保存協会(Cutty Sark Preservation Society)は、保存活動に協力的だったエジンバラ公フィリップ殿下(エリザベス女王の夫君)の後押しを得て、民間から25万ポンドの修復資金を集める事に成功する。 この費用はポルトガル時代、そして航海学校時代に変貌していった船体をティー・クリッパーとして活躍した1872年当時の姿を復元することに費やされた。 こうして1957年にはグリニッジの乾ドックでの一般公開が始まり、観光名所としてロンドン市民そして多くの観光客に親しまれるようになったのである。

エリザベス女王の夫君の力添えまで得て、余生は安泰―と、誰もが思ったはずのカティ・サーク号だったが、厄介な問題が起こる。 建造からすでに130年以上が経過していたのだから無理もないが、船はその重みで枠組みがたわみ、野外展示であることも手伝って痛みが加速し、崩壊する危険性が出てきたのだ。

保存協会では再修復のための資金が不足し、一般公開をあきらめねばならないであろうとの懸念を表明。しかし、2006年に英国国営宝くじ(ロッタリー)の文化遺産基金ほか各機関から助成金がおりることになり、大掛かりな復元修理工事が実現。 カティ・サーク号は再生に向かって歩み始めたのだったが…。 と、ここまで書けば、この先の展開は予想していただけるのではないだろうか。

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 好事魔多し。 火災事故と復元作業

  カティ・サーク号は、長らく当地=ロンドン近郊のグリニッジ=で保存公開され、多くの見学者を集めていた。野外展示であることから痛みもあり、一時一般公開を中止し、2006年11月より2008年にかけて、2500万UKポンドを投じて大規模な修理と整備をおこなうこととし、あわせて、船の内外装を、もっとも魅力的だったとされる1869年建造当時の状態に復元すべく、その作業が開始された。

ところが、2007年5月21日、午前4時45分頃、カティサークの船体より火災が発生した。 消防車8台・消防士40人が出て消火に当たったが、火は1時間半以上燃え続け、午前6時28分頃漸く鎮火するも、鋳鉄製のフレームを残して多くの部分が焼失した。 旧式木造船の構造上、防水用のワックスが大量に使用されていたため木製の構造材は消失した。 幸いなことに分解修理中だったこともあり、マストやデッキの木材、船首像など装飾類は既に取り外されて別の場所で修理を受けていたため、焼失は元の船体全体の10%程度、オリジナル部分の2%程度と比較的小規模で済んだとされる。

しかし、船首部を残すのみで全焼したという報道もあった。 復元の可否を判断するには、燃え残った鉄製フレームの強度などの調査が必要とされた。 出火が人気のない未明であったことから、ロンドン警視は不審火の疑いもあるとして捜査したが、最終的には作業現場に放置されていた掃除機の電源の消し忘れによる発火(失火)と確定された。

復元には4600万ポンドが必要とされ、英国政府が300万ポンドを支出し残りは民間からの寄付金で賄った。 もともと、 長年の乾ドックでの展示の結果、竜骨へ多大な負荷がかかり、船底の形の変形が認められたことから、船体を3m持ち上げてドックの側面からの支柱で支える形にする修復工事中の事故である。
本格的な修復作業の矢先に発生したこの火災事故は、同号と、その保存に奔走する人々を奈落の底に突き落とすような大事件、すなわち冒頭で述べた修復工事中のこの火災だった。 しかしながら、もともとこの工事のため、船体の部材や調度品が取り外されていたおかげで、実際の被害は5%にとどまり、工事完了は遅れたものの、昨年無事にエリザベス女王列席のもと、お披露目式が行われたことを、「奇跡」と思った関係者も少なくないことだろう。 2012年4月25日、女王エリザベス2世によって一般公開の再開が宣言された。

こうして振り返ると、いくつかの「もし」が頭に浮かんでくる。 もしスエズ運河開通が遅れていたら、ポルトガルで処分されていたら、ダウマンが船を目に留めなかったら、火事で全焼していたら…。 人間だけに限らず運命とは実に予測不可能なものである。 かつて白い帆をはためかせ世界の海洋を疾走し、引退してもなお私たちの目を楽しませてくれるカティ・サーク号は、人生のレースに勝ったといっても良いのかもしれない。

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 ○◎● 余禄 ●◎○

 なぜウィスキーに紅茶船の名前がついたの?
1923年誕生のブレンデッド・スコッチ・ウイスキー「カティ・サーク」。世界中で売られているスコッチ・ウイスキーの中でも広く知られた存在だ。
禁酒法の撤廃運動が加熱していた米国に向け、新しいブレンドウイスキーを販売しようとしていたベリー・ブラザーズ社は、前年にポルトガルから買い戻され大きなニュースとなったカティ・サーク号の歴史と、冒険に彩られたイメージに注目。スコットランドの有名アーティスト、ジェームズ・マックベイがあの有名なラベルの絵を担当し、人気ブランドが誕生したのだった。

カティサークの乗組員は何名
1870年、カティ・サーク初航海の乗組員は27人。船長や一等船員に二等船員、上級船員の身の回りの世話をするスチュワード、そして料理人や帆の修理人、大工なども航海には欠かせないメンバーだったという。船乗り達は通常、1つの航海ごとに仕事の契約を結ぶフリーランスが大多数だったが、10回もの航海をカティ・サーク号で果たした人物が2人存在する。1人は本文にも登場した名船長リチャード・ウジェット、そしてもう1人は料理人のジェームズ・ロブソン。この料理人ロブソンは、赤ん坊のころ、カゴに入れられ中国沿岸部を漂流していたところを英国船に救助され、英国に連れ帰られたという経歴の持ち主だ。

カティサーク 殺人事件って?
昔の船乗りは荒くれ者が多く、ケンカなどによる殺傷事件が絶えなかったというが、カティ・サーク号は比較的穏やかな船で、事件らしい事件は殆ど起こらなかったと伝えられている。ただし1880年に一度だけ例外があった。石炭を積みウェールズから横浜へと向かっていた船上で、犬猿の仲だった一等航海士シドニー・スミスとシカゴ生まれの血気盛んな船員ジョン・フランシスが巻き上げ機に使う木の棒を振り回しての大喧嘩を展開、フランシスが死亡してしまう。しかし船長ジェームズ・スミス・ウォレスはこの事件を黙殺し、スミスは逃亡。後にこの責任を問われた船長ウォレスは海に身を投げて自殺してしまう。この事件はジョセフ・コンラッドの小説『秘密をともにする者(原題:The Secret Sharer)』の題材になっているという。

乗組員はどんな食事をしていたの?
長い航海の間、乗組員たちはどんな食事をしていたのだろうか。1週間のメニュー例を覗いてみると、月曜から金曜まではメニューA「エンドウ豆のスープ&塩漬け豚肉」とメニューB「塩漬け肉&パン」の繰り返し。土曜日は塩漬け加工肉(ハムのようなもの)とジャガイモ、そして日曜日はジャガイモのパイといった具合。これらに加えコーヒーと紅茶、ビスケット、また船乗りの命取りとなる壊血病を予防するライム・ジュース、加えて乳製品と砂糖、そしてバターが支給された。保存がきくことが最優先されるため肉は塩辛くパンはガチガチといった具合で、あまり美味しいものではなかったようだ。また、船上では新鮮な卵のためニワトリを積み、ネズミ対策に猫を飼うのが一般的であったという。

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===== 続く =====

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