サムライから葡萄王へ=01=

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 その少年の名を長澤鼎(かなえ)という。 幕末期に薩摩藩から英国へと派遣された十五名の留学生のうち、弱冠十三歳という若さで渡航した長澤鼎は、維新後に帰国して後に初代文部大臣となった森有礼(十四頁にて後述)や、日本のビール産業の礎となってサッポロビールの前身を築いた村橋久成などと異なり、不思議なほどその名を世間に知られていない。

彼の名前が没後、初めて脚光を浴びたのは、一九八三年十一月十一日のことだった。 来日中のロナルド・レーガン大統領が、経済摩擦で緊張感が漂っていた日米の友好関係を修復するため、国会で演説を行ったのである。 その中で大統領は長澤鼎について触れ、次のように語った。

「仕事熱心な日本人がカリフォルニアにもたらした奇跡を、私はこれまで数多く見てきました。たとえば一八六五年、長澤鼎という若きサムライ・スチューデントが、西洋の先進技術を学ぶため、日本を後にしました。そしてその十年後、彼はカリフォルニア州サンタローザでファウンテングローブというワイナリーを開き、間もなくカリフォルニアの葡萄王として知られるようになったのです。日米両国にとって、サムライから実業家となった長澤氏の功績は計り知れません」

この演説の背景には、長澤の出身地である鹿児島市がソノマ郡のサンタローザ市と国際交流を行っていたことから、交流協会の米国側会長が東京の米国大使館に情報収集を依頼し、その内容が大統領の周辺に伝わって偶然にもスピーチにつながったという経緯がある。 しかし、実のところ長澤のことは、地元サンタローザですらほとんど知られていなかったのだという。

長澤鼎(本名・磯永彦輔)は元薩摩藩士である。 遡ること一八六五年、薩英戦争を経て西欧の文明や海軍技術に開眼した薩摩藩は、藩の近代化に向けて人材育成を促すべく、長崎に住む英国人貿易商トーマス・グラバーの助力を得て、将来を嘱望された十五人の若きエリートたちを英国に留学させることに成功する。
当時、諸藩による海外渡航は江戸幕府によって禁じられていたため、「大島への出張」という名目のもとに行われた密航であった。 長澤は渡英当時十三歳という若さで、最年少だった。 他の留学生たちとは一線を画す人生を歩むことになったのは、その若さゆえとも言えるかもしれない。
同志たちが明治維新を機に帰国の途に着く中、一人異国の地に留まって自らの人生を切り拓き、巨万の富を得て地元で名士と呼ばれるまで上り詰めた長澤鼎。それだけの傑物が、なぜ歴史の中にうずもれてしまうに至ったのか。 ここでは、激動の時代を生きた長澤の人生を追うことで、その謎を少しでも解いてみたい。

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ウイキベィア氏はかく語る; 長澤 鼎(ながさわ かなえ、本名:磯永彦輔1852年 – 1934年3月1日)は江戸時代薩摩藩士。薩摩国出身。13歳の時藩命でイギリスに留学し、後にカリフォルニアに渡り「カリフォルニアのワイン王」「葡萄王」「バロン・ナガサワ」と呼ばれる。

薩摩国鹿児島城下上之園通町(現在の鹿児島県鹿児島市上之園町)にて磯永孫四郎とフミの四男として誕生する。 生家は代々天文方で、父親の磯永孫四郎は儒学者。

1865年慶応元年)、13歳のときに森有礼吉田清成五代友厚鮫島尚信寺島宗則らと共にイギリスに留学する(薩摩藩第一次英国留学生)。他の留学生はロンドン大学に入ったが、長澤は年齢が入学年齢に達していないために、スコットランドアバディーン・グラマー・スクールに通う。貿易商トーマス・ブレーク・グラバーの実家に世話になるが、藩の財政事情が悪化し多くの薩摩藩英留学生が帰国すると、慶応3年、性的心霊主義者として知られるトマス・レイク・ハリスを信奉していたローレンス・オリファントの招きで森ら6名で渡米し、ハリスが主宰するキリスト教系の新興教団「新生社(Brotherhood of the New Life)」に入り、信者らと共同生活を送る。薩摩藩留学生のうち何人かはハリスの思想に違和を感じてすぐ離反したが、長澤は森らとともに残り、森らが帰国後も唯一人アメリカに残り、教団で厳しい労働と信仰生活を送りながら、1870年には9月から3か月ほどコーネル大学にも通った。
教団の経営のためにワイン醸造をニューヨークブルックリンでジョン・ハイド博士から学び、葡萄農園を中心とする農業で財政を支えた。

1875年、教団はカリフォルニアサンタローザワイナリーを開いた。しかし新生社の異端思想に対し、新聞が反教団キャンペーンを行ったために、ハリスが引退すると教団は事実上解散した。 1900年長澤はワイナリーを教団から買い取り、品質向上に努力し、彼のファウンテングローブ・ワイナリーをカリフォルニア州10大ワイナリーのひとつにまで育て上げた。カリフォルニア大学デービス校の教授に醸造技術を学ぶなど研究を続け、高級ワインに育て上げた上に、フランスには特約店を設け、苗木を輸入するなど、商才にも長けていた。 彼のワインは米国内のワインコンクールで好成績を納め、イギリスに輸出された最初のカリフォルニアワインもナガサワ・ワインである。

生涯独身を貫き、83歳で死ぬと、ワイナリーは甥の伊地知共喜が継ぐ。その一部はパラダイスリッジ・ワイナリーとして継承されている。莫大な土地財産は排日土地法等のため相続できず他人の手に渡った。 2012年に新たな未公開日記などがカルフォルニアで見つかった。

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===== 続く =====

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