サムライから葡萄王へ=02=

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夢の渡航が現実に

薩摩藩が設立した洋学教育研究機関「開成所」の優秀な書生であった磯永彦輔(長澤鼎)が「藩命」を受けたのは、一八六五年一月十八日のことだった。手渡された辞令を目にした時の彼の喜びは、言葉では言い尽くせないほどだった。 藩内でも指折りの洋学者の家に生まれ育ち、かねてから、とびきり利発な少年として知られていた彼にとって、海外渡航はまさに夢そのものだったのである。

磯永家は、代々暦算家として島津家に仕えてきた家系で、彦輔の高祖父にあたる孫四郎周英は、日本天文暦学史上に多大な功績を遺した高名な洋学者、また曾祖父の周経も暦学者として活躍し、西洋暦学や航海測天術の導入に尽力した。 儒学者として知られる彦輔の父、孫四郎周徳もまた航海術を学んでおり、磯永家はまさに薩摩藩における洋学の草分け的存在であった。 小さい頃から洋書や翻訳書に囲まれ、洋学に親しんできた彦輔が、渡航辞令を受けて飛び上がるほど喜んだのも無理はないというものだろう。 しかもわずか十三歳にして、一族の誰もが夢見た渡航が、現実として目の前に迫ってきたのである。

表向き「半年間の大島出張」を命じられた、磯永彦輔をはじめとする十五名の薩摩藩留学生たちは、英国への密航にあたり、それぞれ変名を用いることになる。 数年後に帰国するまで、その変名でお互いを呼び合い、藩との書簡もすべて変名を使うというのがルールだ。 そこで磯永彦輔が君主から授かった名前が、「長澤鼎」であった。 まだあどけなさが残る少年に、これから思いもよらぬ人生が拓け、結果的にこの変名を生涯用いることになるとは、この時、知る由もない。

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1863年の薩英戦争を機に、薩摩藩では海外に通じた人材養成の気運が高まった。 薩英戦争でイギリス軍の捕虜となった五代友厚は、翌1864年に、欧州への留学生派遣を強く推す富国強兵策「五代才助上申書」を藩に提出し、薩摩藩洋学校「開成所」教授の石河確太郎大久保利通に開成所の優秀な学生の派遣を上申した。 開成所は、薩英戦争後の藩の近代化政策の一環として、洋式軍制拡充の目的で1864年に創設された藩立の洋学養成機関で、語学のほか、砲術、兵法などの軍事学や天文、数学などの自然科学を中心に教えていた。
選抜された学生たちは五代ら引率者とともに、元治2年(慶応1年、1865年)1月18日に鹿児島城下を出発。 薩摩郡串木野郷羽島村(現在の鹿児島県いちき串木野市羽島)の港から船の都合により2カ月ほどの待機を経た後3月22日、トーマス・グラバーの持ち船であるオースタライエン号で密航出国した。
5月28日(旧暦)にイギリス到着後、一行19名のうち、引率係の新納久脩寺島宗則五代友厚と、通訳の関研蔵、年少の長沢鼎を除いた14名が、3か月の語学研修ののち、ロンドン大学ユニバーシティカレッジの法文学部聴講生として入学し、先に入学していた長州藩の留学生2名(井上勝と南貞助)とともに学んだ。 長沢はアバディーングラバーの家に預けられ、地元の学校に通った。 大学では、英国軍事学の基礎とも言える歴史・科学・数学などを主に学び、約半数が経済的理由により一年後の1966年夏に帰国した。 この間留学生と会った画家のジョージ・プライス・ボイスは美術評論家のウィリアム・マイケル・ロセッティ(画家ロセッティの弟)に宛てた書簡で彼らのことを「育ちがよく聡明で英語も少しわかる」と評している。

残留した学生たちは、学業のほか、欧州各地を訪問するなどしたのち、一部はシャルル・ド・モンブランの紹介でフランスに転学、森有礼鮫島尚信長澤鼎吉田清成畠山義成松村淳蔵の6名は、英国下院議員ローレンス・オリファントの「日本再生のために役立つ」という勧めに従い、オリファントが信奉する新興宗教家トマス・レイク・ハリスの教団「新生兄弟」のコロニーに参加するため、1867年夏にアメリカに移った。
尚、英国に残留した学生たちは、ロンドンで長州五傑と会う。 長州五傑は、長州藩から清国経由でヨーロッパに派遣され、主にロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジなどに留学した、井上聞多(馨)、遠藤謹助山尾庸三伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)の5名の長州藩士を指す。

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オリファントは留学生たちのことを「人に迷惑をかけることを嫌い、世間知らずで、真実で愛すべき誠実な人たち」と評し、留学生たちにハリスの教えこそ「外国から日本を守る唯一の道」と説いて勧誘した。 教団コロニーでの自給自足の共同生活は、学資の尽きてきた留学生たちにとっても好都合であった。 また、英国で1年を過ごした時点で留学生たちはキリスト教文明社会について懐疑的になっており、オリファントらの影響もあってか、欧米諸国の欲心にのみとらわれて侵略行為を繰り返す弱肉強食的な体質を批判して学ぶべき点が少ないとし、「表面的には公平な英国もその実は技巧権謀に支配された不義不法の国」と国元に書き送っている。 同教団には、森らの勧めで、薩摩藩から新たな留学生たちも参加している(薩摩藩第二次米国留学生)。

一人、スコットランドへ

英国に上陸後、留学生たちはロンドン大学に聴講生として入学するが、年少すぎる長澤は一行を離れ、スコットランドのアバディーンにあるグラマースクールに入学することになる。 ロンドンを発つ日、同志たちは駅まで長澤を見送りに行ったが、一人列車に乗り込む長澤に不安そうな様子は全く見られず、森有礼をして「剛気の人」と言わしめている。 藩校から選抜され開成所へと入所し、母国において俊才ぶりを認められ、英学修業に勤しんでいた長澤だけに、アバディーンでもその実力を示し、優秀な成績を修めた。 周囲に日本人がいない環境で、英国生活にどっぷり浸っていた長澤は、一年も経つとすっかり現地に溶け込み、母国の父に英文で手紙を送るまでになっていた。

十三歳という年齢も、環境に素直に順応できる要素だったのだろう。 封建社会に生きる武士としての生き方が身に付いている年長の留学生たちに比べ、長澤は精神的にも肉体的にも未熟であり、言い換えればどちらにでも転べる柔軟さがあった。 まさにスポンジのごとく、西洋文化を丸ごと吸収していったのである。

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===== 続く =====

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