サムライから葡萄王へ=03=

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生涯の師との出会い

同じ頃、夏の休暇を利用して米国へと向かった留学生仲間の吉田清成と鮫島尚信は、付き添いの外交官ローレンス・オリファント=前節、イラスト参照=の紹介で、当時彼が師と仰いでいた宗教家のトーマス・レイク・ハリスに会う。 ニューヨーク州でコロニーを組織し、禁欲的な生活のもと理想社会を築こうとしていたハリスの教えに感銘を受けた二人は、英国に戻り、この感動を皆に伝える。そして翌一八六七年の春、英国を訪れたハリスに、ついに長澤も出会うのである。

すでに話には聞いていたものの、実際に本人と対面して教義を聞いた長澤は、そこに新鮮な感動をおぼえ、その思想に傾倒してゆく。 他の留学生らが主に「国のために西洋を理解する」という意味でハリスの教義に興味を示していたのに対し、一人アバディーンで生活し、西洋人的な感覚を人一倍身に付けていた長澤は、そこに、より自分自身の本質に通じる何かを見出していたようである。
一方、ハリスもまた、自身が打ち立てる理想社会を日本に広めることを意図し、日本の情勢や思想を把握しようと努めた。 そうして何度か会合をもつうちに、長澤たちはハリスの教理にますます深くのめり込み、森有礼吉田清成鮫島尚信市来勘十郎畠山義成を含む六人の留学生らは、米国の教団で労働と勉学に励むことを決意するのである。 経済的な問題も決断に至った理由の一つだった。 幕末の動乱に追われる薩摩藩にとって留学生への出費は決して軽いものではなかったようで、このところ仕送りが途絶えがちになっていたのである。 そこに手を差し伸べたハリスの存在は、留学生たちにとって心強いものでもあった。

※ トマス・レイク・ハリス (Thomas Lake Harris、1823年5月15日-1906年3月23日)はアメリカ合衆国の神秘主義者、詩人、宗教家。性愛哲学の布教者でもある。信者とコロニー生活を送り、日本の幕末期には薩摩藩からの留学生らも参加した。

1823年5月15日にイギリスのバッキンガムシャー州フェニー・ストラッドフォードで厳格なピューリタンの家庭に生まれた。 非常に貧しく、5歳のときに両親とともにアメリカに移住した。 幼少期に母を亡くし、9歳から家計を助けた。 21歳でユニヴァーサリスト・チャーチの説教師となったが、そのときスウェーデンボリの思想に傾倒したといわれる。 1850年頃、ニューヨークで独自の説教活動を開始し(‘Independent Christian Society’)、トランス状態で一連の神秘的詩作を行って、多くの信奉者を集めた。 1859年頃にニューヨーク州ダッチェス郡ワセイクに宗教共同体「新生兄弟会」(The Brotherhood of the New Life)を創立、その預言者的存在となった。

1867年に数十人の信者を連れてシャトークア郡 (ニューヨーク州)ブロックトンに転居し、信者たちと共同生活を送り、農業などで自給自足の生活をしていた。 この頃、薩摩藩留学生11人が加わり、1年ほどコロニー生活を送った。 最盛期には信者はイギリスとアメリカに2000人ほどいたとされる。
ハリスの思想は、スウェーデンボリの思想の独自解釈にヒンドゥー教神秘思想が加わったものといわれる。ハリスは正統なキリスト教信仰を非難し、厳しい修練と共同生活を通して神の国を目指す、熱烈な信仰者であった。 厳しい肉体労働とハリスを「父」と仰ぐ共同体の生活と秩序を通して、根本から自己を作り変え、再生するという考えのもと、長時間の農耕、無私、質素などが実践された。 家族であっても同居は許されず、他のメンバーとの会話を禁止される者もあり、ハリスの指示に従うことが絶対とされた。

1875年にサンタローザ (カリフォルニア州)へ移り、コロニー「ファウンテングローブ」を造る。 テントでのキャンプ生活をしながら、購入した1200エーカーの土地を開墾し、ぶどう園とワイン醸造所を造った。 1892年にファウンテングローブを長沢鼎ら信徒にまかせ、自らはニューヨークに移り住み、1895年に引退する。

・・・・・・・・話を長澤たちの留学生にもどす。

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日本人留学生、困窮してアメリカに向かう

一八六七年八月、十五歳の長澤は、五人の仲間たちとともに英国を離れ、ハリスとオリファントの待つ米国へと向かう。 ハリスの教団は、ニューヨーク州ブロクトンBroctonという町にあり、その名を「ブラザーフッド・オブ・ニューライフBrotherhood of the New Life」といった。 五大湖の一つであるエリー湖畔に広大なブドウ園を開設してワインの醸造を行い、またコロニーでは常に七十―百人近くの団員が自給自足による共同生活を行っていた。 上記のように、薩摩藩留学生とハリスとの出会いは、初代駐日英国領事ラザフォード・オールコックの秘書官として日本滞在経験のある英国下院議員ローレンス・オリファントが取りもった。 英国の政治に絶望し、ハリスの説く新世界に傾倒していたオリファントは、議員職を投げ打ち、母親とともにハリスのコロニーに参加することを決めており、イギリスに滞在中だった薩摩藩留学生を新世界建設の仲間にするべく勧誘し、1866年に鮫島尚信吉田清成をアメリカに連れて行き、ハリスと面会させたのだった。

このときの様子をのちに薩摩藩留学生から聞いたイギリスの政治家ジョン・ブライトは、彼らがハリスから受けた不思議な体験を日記に書き残している。 1867年5月12日、オリファントの紹介でブライトは5人の薩摩藩留学生と会食をした。 ブライトは留学生たちを「イギリス人より小柄だが、体つきは頑丈で非常に頭がいい」と評価したうえで、そのうちの2人から聞いた話として、「友人らと部屋でハリスの説教を聞いた際、非常に感動し、中には泣き出す者までいた。 ハリスがみんなの間に座ってそれぞれの手を握ると、ひとりが右腕に震えを感じ、何週間もその影響が続いた。 ハリスと別れてカナダを訪問しているときもハリスのことや彼が話したことで頭がいっぱいだった」と話したといい、「ハリスのことを彼らの無知と暗闇から救ってくれる救世主のように思っているようだ」と書いている。 また、かつて天皇の御霊に祈りを捧げていた留学生たちも今やゴッド(キリスト教の神)に祈り、聖書を読み、キリストを身近に感じており、日本に帰ったら迫害されるのではないかというブライトの問いにも、「迫害されるとは思わないが、信仰とキリストのためなら死ぬ覚悟もできている」と答えたと記している。

更に、「ハリスが教える呼吸法により神が胸を満たし、心臓を震わせ、神の存在を全身で感じることができた」という留学生たちに、「内なる光」について、聖霊と人間の魂の交流について話し、「この若き紳士たちは、マナーやふるまい、考え方においても紳士であり、英国のいかなる社会でもやっていけるだろう。 ハリスは、日本人は非常に感受性が強く、受容性のある民族なので、新しい宗教も難なく受け入れるだろうと考えているようだ」と述べる一方、「彼らが経験したという変化がどういうものかはよく理解できなかった」とも書いている。

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1867年7月、薩摩藩第一次英国留学生のうち、森有礼鮫島尚信長澤鼎吉田清成畠山義成松村淳蔵の6名がロンドンを出発、ハリスが主宰するコロニーのあるニューヨーク州へ向かった。 さらに、新たに渡米してきた薩摩藩の谷元兵右衛門(道之)、野村一介(高文)、仁礼景範江夏蘇助湯地定基の5名が合流し、薩摩藩士総勢11名による共同生活が始まったが、森、鮫島、長沢、野村以外の者はほどなくハリスの元を去った。 森、鮫島はハリスのコロニーで1年近く生活し、ハリスから多大な感化を受け、1868年夏、日本国家の再生を命ぜられ帰国するのだが、長沢、野村は残ってアメリカの新天地でサムライ精神を実践してゆく話を次回から展開する。

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===== 続く =====

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