サムライから葡萄王へ=04=

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 米国カリフォルニアのナパ、ソノマ周辺といえば、銘醸ワイナリーが集中していることで世界的に知られ、いまや日本からも多くの観光客が訪れている。 しかし、この地で19世紀後半に、数々の賞を受賞した世界的なカリフォルニア・ワインが、ある日本人の手によってつくられていたことを知る人は少ないのではないだろうか。

その日本人とは、幕末期に13歳で英国に派遣された薩摩藩士であった。 磯永彦助が本名であるが、密航による留学であり藩主島津公より拝命した“長沢鼎”を生涯の呼び名にした。 遥か遠い異国の地で時代に翻弄され、数奇な運命を辿った一人の秀英な薩摩隼人のアメリカ生活がが始まった。

長沢鼎を取り巻く環境

一八六七年八月、十五歳の長澤は、五人の仲間たちとともに英国を離れ、ハリスとオリファントの待つ米国へと向かう。 ハリスの教団は、ニューヨーク州ブロクトンBroctonという町にあり、その名を「ブラザーフッド・オブ・ニューライフBrotherhood of the New Life」といった。 五大湖の一つであるエリー湖畔に広大なブドウ園を開設してワインの醸造を行い、またコロニーでは常に七十―百人近くの団員が自給自足による共同生活を行っていた。

尚、11人の日本人留学生がハリスのコロニーで暮らしたのは、1867年の後半から数か月間で、翌1868年の春から離脱者が続き、夏ごろには、ほとんどがハリスの元を去った。 脱退の原因はハリスの信仰と教義に対する学生たちの疑念にあったとされ、多くが教団と決別しているが、森とハリスの付き合いは森が帰国してからも続いた。

=後年、森有礼に認められ、キリスト教を学ぶ留学生として、1871年1月23日(明治3年12月3日)、米国に渡った仙台藩新井奥邃(↓)は、米国マサチューセッツ州ボストン郊外の村落において労働と冥想の日々を送り、数名の同志と共に田畑を耕し、労働と祈りの生活を実践していたハリスに師事し、その道を学んでいる。 彼は、1875年(明治8年)2月、教団の移転のため、ハリスと共に、カリフォルニア州サンタローザへ移動。 以来約25年間、この地にあって労働と瞑想の日々を過ごし、1899年(明治32年)英語の自著『内観祈祷録』一冊を携えて帰国した話は有名である。 他方、新生同胞教団はブドウ農園の経営を行っていて、生涯米国に残留してサンタ・ローザで生活を続けた長澤鼎はカリフォルニアの葡萄王と成長していく(本文にて追述)=

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※; 新井 奥邃(あらい おうすい、1846年-1922年)は、仙台藩士で、「有神無我」を唱え、自らを「クライストの志願奴隷」と定義した明治後期から大正時代の特異なキリスト教思想人。 戊辰戦争後に森有礼に認められ、1871年1月23日(明治3年12月3日)、米国に渡る。 アメリカでトマス・レイク・ハリスの弟子となり、労働と冥想の日々を送る。 1899年(明治32年)8月、理由は必ずしも判然としないが、53歳の奥邃は手提げ鞄一つで飄然と帰国した。

富田鐵之助に挨拶し、ひとまず東京の甥・一郎の留守宅に投宿し、ニコライとの再会も果たし、仙台も訪れたが、縁深き富田はじめ支援する者はなく、その後4年余りの間、東京市とその北近郊を転々とした流寓の生活を送りながら、『日本人』『女学雑誌』『聖書之研究』『新人』等に警世の文を発表する。 また、巌本善治が校長だった明治女学校で一時は講話も行った。 若き荻原守衛(碌山)もここで奥邃を知る。 30年近くも師と慕ったハリスとは文通することもなく、弟子に問われれば答える程度で自らからその名を口にすることもなかったという。

奥邃はまた足尾銅山操業停止と鉱毒被害民救済を訴え続けていた田中正造に紹介され、正造が1901年12月10日に天皇直訴を試みた翌月の『日本人』誌上に正造の行動と心事を擁護し、政府の責任を厳しく追及、11月には正造に伴われて被害地を視察する。 それ以後、二人の交流は田中が死ぬまで続いた。

1899年(明治32年)、53歳のとき、英語の自著Inward Prayer and Fragments(『内観祈祷録』)一冊を携えて帰国する。 1904年(明治37年)、巣鴨に「謙和舎」を開き、奥邃独特の伝道生活に入る。 生涯娶らず独身を貫き、本人の意思で写真や肖像画は一枚も残していない。 1922年(大正11年)6月16日召天する(76歳)。 墓地は東京都世田谷区代沢の森巌寺にある

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※;  森 有礼(もり ありのり、弘化4年1847年8月23日 – 明治22年(1889年2月12日)は、薩摩藩士、外交官政治家。 初代文部大臣を務めた他、一橋大学を創設し、明六社会長、東京学士会院初代会員を務め、明治六大教育家に数えられる。 正二位子爵。 通称は助五郎、金之丞。

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※;  トマス・レイク・ハリス (Thomas Lake Harris1823年5月15日 – 1906年3月23日)はアメリカ合衆国の神秘主義者、詩人、宗教家。 性愛哲学の布教者でもある。信者とコロニー生活を送り、幕末期には薩摩藩からの留学生らも参加した。

1823年5月15日にイギリスバッキンガムシャー州フェニー・ストラッドフォードで厳格なピューリタンの家庭に生まれた。 非常に貧しく、5歳のときに両親とともにアメリカに移住した。 幼少期に母を亡くし、9歳から家計を助けた。 21歳でユニヴァーサリスト・チャーチの説教師となったが、そのときスウェーデンボリの思想に傾倒したといわれる。 1850年頃、ニューヨークで独自の説教活動を開始し(‘Independent Christian Society’)、トランス状態で一連の神秘的詩作を行って、多くの信奉者を集めた。

1859年頃にニューヨーク州ダッチェス郡ワセイクに宗教共同体「新生兄弟会」(The Brotherhood of the New Life)を創立、その預言者的存在となった。 1867年に数十人の信者を連れてシャトークア郡 (ニューヨーク州)ブロックトンに転居し、信者たちと共同生活を送り、 農業などで自給自足の生活をしていた。 この頃、薩摩藩留学生11人が加わり、1年ほどコロニー生活を送った。 最盛期には信者はイギリスとアメリカに2000人ほどいたとされる。

ハリスの思想は、スウェーデンボリの思想の独自解釈にヒンドゥー教神秘思想が加わったものといわれる。 ハリスは正統なキリスト教信仰を非難し、厳しい修練と共同生活を通して神の国を目指す、熱烈な信仰者であった。 厳しい肉体労働とハリスを「父」と仰ぐ共同体の生活と秩序を通して、根本から自己を作り変え、再生するという考えのもと、長時間の農耕、無私、質素などが実践された。 家族であっても同居は許されず、他のメンバーとの会話を禁止される者もあり、ハリスの指示に従うことが絶対とされた。

1875年にサンタローザ (カリフォルニア州)へ移り、コロニー「ファウンテングローブ」を造る。 テントでのキャンプ生活をしながら、購入した1200エーカーの土地を開墾し、ぶどう園とワイン醸造所を造った。 1892年にファウンテングローブを長沢鼎ら信徒にまかせ、自らはニューヨーク市に移り住み、1895年に引退した。

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===== 続く =====

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