サムライから葡萄王へ=05=

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長澤鼎をはじめとする6人の薩摩藩留学生たちがその思想に傾倒し、彼らを米国でのコロニー生活へと向かわせた人物、トーマス・レイク・ハリスThomas Lake Harrisとは、一体何者なのだろうか。

1823年に英国のバッキンガムシャーで、ピューリタンの貧しい家庭のもとに生まれたハリスは、5歳の時に両親と米国のニューヨーク州に移住した。しかしその4年後に母が亡くなり、継母によって虐待を受けたことがどうやらトラウマとなって残ったようである。そんなハリスが救いを求めたのが「ユニテリアン・ユニバーサリズム」と呼ばれる自由な思想および宗教活動をモットーとした信仰で、後に彼自身が説教師となりしばらくの間、布教活動を行う。その過程でスウェーデンボルグ派の神秘主義者でスピリチュアリストの先駆けとしても知られるアンドリュー・ジャクソン・デイヴィスと出会い、その思想に多大な影響を受ける。以後、デイヴィスとともにニューヨークで布教活動に携わったハリスは、トランス状態で神秘的な詩の創作を行うなどして注目を集めると同時に、さまざまな信仰を取り入れた独自の教義を展開。正統的なキリスト教信仰から離れ、神秘主義やヒンドゥー教、また神道なども取り入れたオリジナルの神学理論を打ち立てたのである。その主となる思想は、厳しい規律、激しい肉体労働といった修練のもと、共同生活を通して神の国を目指すというものだった。

自己の教義を広めることを目的にハリスは1859年に英国を訪れ、その際に米外交官ローレンス・オリファントと出会っている。そしてその帰国後、ニューヨーク州はエリー湖畔のブロクトンにある農場に移り住み、「ブラザーフッド・オブ・ニューライフ(Brotherhood of The New Life)」と呼ばれる共同体をつくり上げて、理想とする自給自足の生活を開始したのである。

しかしハリスの教えは、ある部分で多くの人々が理想とする人間関係の在り方や、物欲や利害関係などとは無縁の本来の人間らしい生き方を説いている一方、無用にストイック過ぎるきらいがあった。また私有財産を認めていないために、ハリスが全財産を管理するという矛盾した状況にあったのも事実だ。当時、弟子としてこのコロニーで生活していた人々は、日本人留学生を除いてはほとんどが富裕層だったことを考慮すると、なおさら懐疑的になってしまうというものだろう。そういったことから、この教団を胡散臭い目で見ていた人々も少なくない。

また、コロニー内における諸々の決定事項がハリスの「霊言」によっていたことから、事実上、ハリスの独裁状態と言えなくもなかった。長澤らのひと足先にコロニーを後にした畠山、吉田、市来の3人も、そんな教団の矛盾点に疑問を抱いていたに違いない。後年、オリファントもハリスと金銭問題を巡って対立し、裁判沙汰となっている。

とはいえ、これらの薩摩藩留学生以外にハリスの教えを直接受け、その思想に傾倒していった日本人がいたのも事実。仙台藩士の新井奥邃こそがその人である。ロシア正教の宣教師ニコライとの出会いからキリスト教に入信した新井は、森有礼が初代駐米大使となった際にアメリカ赴任に随行。ハリスに傾倒していた森の紹介でコロニーに合流した新井は、教団がカリフォルニアへ移った際も長澤とともに移住、以後、労働と瞑想の日々を送った。25年後にほぼ無一文で帰国した後は、巣鴨に私塾を開設して伝道生活を送り、足尾銅山鉱毒事件で知られる政治家で社会活動家の田中正造や、キリスト教思想家の内村鑑三らに影響を与えた。生涯、私利私欲とは無縁の生活を送った新井奥邃こそが、ハリスの基本精神を忠実に体現した人物だったともいえそうだ。

https://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=mtHcxfpH0ug

≪唸声米国/薩摩藩士・長澤鼎氏の葡萄園≫

= 森有礼 =

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日本人留学生、ニューヨークでの共同生活

今一度、長澤の英国留学を確認すれば、 アメリカで生活せねば成らなくなった彼の苦悩が想像できる。 慶応元年、13歳のときに森有礼吉田清成五代友厚鮫島尚信寺島宗則らと共にイギリスに留学した長澤鼎は、他の留学生はロンドン大学に入ったが、長澤は年齢が入学年齢に達していないために、スコットランドアバディーン・グラマー・スクールに通っている。 たった一人でスコットランドに向かったのであるが、長崎の貿易商トーマス・ブレーク・グラバーの実家に世話になるしか英国滞在の道はなかった。 英国に到来以降、藩の財政事情が悪化し多くの薩摩藩英留学生が帰国すると、慶応3年、性的心霊主義者として知られるトマス・レイク・ハリスを信奉していたローレンス・オリファントの招きで長澤は、森ら6名で渡米し、ハリスが主宰すキリスト教系の新興教団「新生社(Brotherhood of the New Life)」に入り、信者らと共同生活を送るしか アメリカでの生活は不可能であったろう。

経済的な問題が解決できずにロンドンを離れニューヨークに向かった長澤たちは、ここ ニューヨーク州ブロクトンに居を構えたわけだが、残されている日記によると、「みじめな思いで一杯になり、ほとんど一晩中泣いていた」 「とてもつらい思いをしたので、涙が止めどなく流れ、夜半まで声を挙げて泣いた」などと書かれており、想像以上に厳しい生活だったようだ。

そんなストイックな生活の中で、徐々に疑問を抱き始めた畠山、吉田、市来の三人は、ハリスとの意見の食い違いもあり翌年(慶応4年、1869年)春に教団を去る。 さらにその後、明治維新の知らせを受けたことで母国への思いを募らせた森、鮫島に対し、ハリスは帰国して国事に尽くすよう指示する。 そして長澤に対しては――、そのままコロニーにとどまるよう命じたのである。 長澤は、森らが帰国後も唯一人アメリカに残り、教団で厳しい労働と信仰生活を送りながら、1870年には9月から3か月ほどコーネル大学にも通う傍ら、教団の経営のためにワイン醸造をニューヨークのブルックリンでジョン・ハイド博士から学び、葡萄農園を中心とする農業で財政を支えている。

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 尚、森と鮫島の帰国後、吉田畠山松村はハリス牧師の仲介でニュージャージー州ニューブランズウィックのラトガース大学へ移ってそれぞれの道を開いて行った。 結局、長澤はここで一人、変わらず労働と献身の日々を送り、七年もの年月を過ごすことになった。 しかし実のところ、ハリスが森と鮫島に帰国を促した際、長澤も内心、帰国を所望していたようだ。 カリフォルニアの日系社会で戦前、活躍したジャーナリスト、河村幽川による「カワムラペーパー」に記された長澤の述懐記録に、こんな言葉が残されている。  「ブロクトンにいる頃(中略)、ハリスさんが森と吉田に向かって『日本は今、困難に直面しているようだ。 おまえらが帰って働くよい時期だと思う。 二人はすぐ出発し、思う存分国のために働いてくれ』と 励まされ、旅の準備を整えてやられました。 わしも一緒に帰りたかったが、ハリスさんはどうしても許しません。 『お前はまだ若い。もう少しここにいて、国が落ち着いてからでも遅くはない』。 もしあのとき一緒に帰っていれば、私のことだから、森のように殺されていたかもしれません」(原文まま)

一八七五年、金銭上のトラブルからハリスはオリファントと決裂。 それに伴って教団のスキャンダルが発覚し、窮地に立たされたハリスはコロニーを解散し、真の支持者だけを連れてカリフォルニアに新天地を求めて移住することに決める。 この時、ハリスとともに旅立ったのは、彼に仕えるリーカー夫人とその息子、長澤、そして数年前より、森有礼の紹介でコロニー生活を送っていたもう一人の日本人、新井奥邃(あらい・おうすい)の四人だった。 一行は開通したばかりの大陸横断鉄道に乗り込み、西へと向かったのである。

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===== 続く =====

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