サムライから葡萄王へ=08=終節

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沈黙のヒーロー

一九三四年、約十四年間にわたって続いた禁酒法がついに廃止されると、長澤はその間、保存していた十三万ガロンのワインを一気に放出し、ワイナリーは全盛期の勢いを取り戻す。 しかし、その二ヵ月後、長澤は他界。 ファウンテングローブの自宅で、八十三年の生涯を閉じた。

当時の地元紙は長澤の訃報を大々的に報じ、その功績を讃えた。晩年、所有していた敷地は約八平方キロメートル、うちワイナリーが約一・六平方キロメートル、資産は十一万八千五十ドルにのぼっていたという。
長澤は生涯、独身を貫き、豪華な家具や骨董品のコレクションを配した広大な邸宅に一人で暮らしていた。実はブロクトンのコロニーで生活していた二十歳の頃、岩倉遣欧使節団の一員として、また日本初の女子留学生として米国に渡った山川捨松という才女とロマンスがささやかれたこともあった。 長澤自身はこの噂を否定しているが、この捨松との恋が、独身を貫いた理由とも言われている。

日本人移民としては類まれなる成功を収めた長澤邸には、生前、日米の著名人が頻繁に訪れた。 一九一五年にサンフランシスコで開催された万博で、長澤は審査員を務めているが、彼のゲストブックには、発明王のトーマス・エジソンや、自動車会社フォードの創始者ヘンリー・フォードらの名前が残されていたという。つまり、長澤は著名人の間でも相当な著名人だったのである。 しかし、先にも述べたように、自己アピールをしない性格だったため、その人物像が一般的に注目されるということがほとんどなかったのだろう。 多くを語らず、妻も娶らずにいた長澤が、どこか近寄り難いイメージを醸し出していたのも事実である。 長澤のこうした気質は、もちろん生来のものかもしれないが、やはり十三歳の若さで渡英し、以来、たった一人で自らの道を切り拓いてきたことに大きく依っているように思われる。

さらに、他の留学生たちが藩命のもと、国家のために西洋の文化や文明を学んでいる中で、幼い長澤は、無意識のうちに自分自身を西洋化させてしまった。 ハリスもそんな長澤に気づいたからこそ、最後まで自分のもとに彼を置いたのではないか。 そういった一種独特の状況の中で自己鍛錬を重ねたことが、彼を寡黙にし、孤高の境地へと導くに至ったのかもしれない。  しかし、それでも長澤は、常に運命の赴くままに与えられたチャンスを享受して、目の前にある仕事を着実にこなして前に進んでいった。 それが、図らずして大いなる成功を収めるに至った所以でもあるだろう。

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時代を超えた日米の架け橋

生涯独身を貫き、83歳で死ぬと、 長澤のワイナリーは甥の伊地知共喜が継ぐ。 その一部はパラダイスリッジ・ワイナリーhttp://prwinery.com/)として継承されている。 莫大な土地財産は排日土地法等のため相続できず他人の手に渡った。

長澤は遺言の中で、ワイナリーの土地は甥の子供たちに相続させるよう望んでいた。 甥の伊地知共喜(いちじともき)は一八九六年ごろに長澤が呼び寄せ、伊地知は以来農園で働いていた。 しかし、外国人土地法によってそれが叶わなくなってしまう。 仕方なく不動産を清算し、その遺産を身内で分配するという手段をとるが、理不尽な法的決定により、最終的に彼らが受け取った遺産はたった3500ドル程度だったといわれている。

結局、長澤の死後、広大な土地は人の手に渡ることになった。 約三十四万平方メートルの土地をサンタローザ商工会議所が、また約七・二平方キロメートルの土地をカリフォルニアの資本家エロール・マクボイルが買い取り、マクボイルはその後、一九四九年に他界するまで引き続きワイナリーを営んでいたとされるが、一九五三年についに閉鎖。 ひと頃は世界的なワイナリーとして繁栄したファウンテングローブは、惜しくも途絶えてしまった。

しかし長澤が蒔いた種はカリフォルニアの大地にしっかりと根を下ろし、また長い時を経て、別の形で実を結んでいる。 カリフォルニアのワイン醸造は戦後ますます発展し、長澤鼎は醸造家たちの間で伝説的な存在となった。 また、レーガン大統領が国会演説を行ったのと同じ頃、サンタローザと鹿児島の間で友好協会が発足。 以来、交換留学プログラムなどを通して交流を図っている。 さらに同協会により、長澤鼎の偉業を讃えたカリフォルニア・ワインの開発が提案され、鹿児島市の老舗百貨店「山形屋」とカリフォルニアのワイナリーが提携、オリジナルの「ナガサワ・ワイン」も誕生した。

かつてのファウンテングローブは現在、その名残りがほんの少し見られるのみだが、広大な敷地内には「パラダイス・リッジ」という家族経営のワイナリーが建ち、当時の長澤の偉業を今に伝えている。 加えて2007年には農園跡地が公園として整備され「ナガサワ・コミュニティ・パーク」と命名された。 サンタローザ市当局によれば、長澤の多大なる貢献を称賛するとともに恩返しの意味も込めて、その名を冠したという。

激動の時代に異色の人生を歩んだこの薩摩人は、歳若き頃から西洋の精神性と哲学に触れ、またその感覚を身に付けながらも「私は東洋の哲学があれば十分だと思う」と語ったとも伝えられる。 日本人移民の先駆者として、また戦前カリフォルニアで巨万の富を得た偉人として、長澤鼎の人生は今後も静かに語り継がれてゆくに違いない。 そして、その類いない物語に触れた時、人は皆、彼が残した遺産がどれほど大きいものだったのかに気づかされるのである。

尚、2007年、サンタローザ市は長澤の功績を讃え、彼のワイン醸造所と農園跡地に市民公園Nagasawa Community Parkをつくった。

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===== 続く =====

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