創作; “光の庭”のうたた寝 =003=

❢❢❢ 遼王朝皇族が耶律大石、王朝再興賦 ❢❢❢

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❝ =第一章第1節_03= 遼王朝崩落 ❞ 

宋江(ソウコウ)は、もともと地主の次男坊で県の胥吏(小役人)を務めていた。 風采のあがらない小男だが、義を重んじ困窮する者には援助を惜しみなく与えることから世間の好漢に慕われていた。 天賦の指導者・宋江の勢いを恐れた北宋朝廷は彼の罪を赦して将軍に取り立て同時期に江南を席巻していた方臘の乱の反乱軍討伐に彼を遠征させていた。  

宋江は、方臘(ホウロウ)配下の反乱軍討伐に活躍する。 しかし、事が成った後 朝廷の腐敗した高官により無実の罪に陥れられた。 朝廷は毒にての刑死を彼に計が、九天玄女が遣わした彼によく似た保義郎が毒を仰いで宋江を梁山泊に逃がした。 時に三十歳の宋江は、紆余曲折の末に 山東省済寧市梁山県に屯する梁山泊軍の総首領に納まり、燕京の大商人・盧俊義(ロ・シュンギ)を副頭領として朝廷に戦いを挑んでゆく。 盧俊義は北遼帝国の耶律大石統帥の親友安禄明の父親安禄衝の配下であった。 

  耶律大石統帥が目指す陰山・五原には帝都を放り出した天祚帝が逃避していた。 天祚帝は遼帝国の第9代皇帝。 第8代皇帝・道宗の子 聡明な皇太子・耶魯斡(ヤリツシュン・梁王濬)の長男として生まれている。 幼名は阿果。 道宗皇帝は、治世の前半は「直言を求め、治道を訪ねる」という宗旨のもと、勧農(農業の振興)・興学(学校の建設)・救災などに努めたが、やがて遊猟と仏教に浸り、堂塔の建立や僧尼への布施に巨額の国費を使い流し、仏寺・僧尼の氾濫を助長した。

やがて、政治を顧みなくなり、耶律乙辛の専権を許した。 乙辛は聡明な皇太子耶魯斡を忌避し、太康元年(1075年)11月、まず皇太子の生母である懿徳皇后を道宗に讒言した。乙辛と組んだ宰相張孝傑の証言によって皇后の不貞を信じた道宗は激怒し、皇后に自殺を命じた。 乙辛は自分に近い皇后を立て、ますます専権する。 乙辛はついでに皇太子を無実の罪に陥れ、道宗に説いてこれを幽閉した。  誣告者である乙辛は幽閉先で皇太子・梁王濬を暗殺してしまう。

幼くして父を失った阿果と妹の秦晋国梁王濬長公主は、これを哀れに思った祖父の遼帝国第8代皇帝・道宗によってとともに養われ、梁王に冊封されていた。  皇太子であった梁王濬が早逝した後、皇帝道宗は甥の涅里を一時的に皇太甥に定めるも、周囲の諫めを受けて孫の阿果=後の第9代皇帝・天祚帝(テンソテイ)=を皇太孫と定めて政権を安定させていたのであった。

しかし、道宗の治世は、皇帝の暗愚と奸臣の専権によって忠臣が迫害されたり、貴顕間の軋轢が続いたりして、朝政は乱れに乱れていた。 また、土地の兼併が進むにつれて民衆の不満が募り、ことに圧迫を受けた東北の女真が反抗に立ち上がった。 

女真の反乱は、道宗の没後25年目に遼を滅ぼす烈火となるのである。 従って 次代に災禍の種を存分に蒔いた道宗の47年に及ぶ治世は、遼を全盛から衰亡へ導いた半世紀と言っても過言ではない。 乾統元年(1101212日)、第8代皇帝・道宗の崩御により 梁王・阿果が遼の第9代の皇帝・天祚帝(テンソテイ)として即位する。

天祚帝は暗愚な性格である。 政務を顧みず、諫言した臣下に対しては処罰を以って臨など、民心の離反を招いた。  外交面でも天慶5年(1115年)に遼に従属していた女真が金を建国して独立すると、親征の討伐軍を派遣。  だが、逆に大敗を帰し、遼の弱体化を露見させる結果を招いたのである。 

日没ー1

保大元年(1121年)の事、枢密使の蕭奉先(ショウホウセン、遼の外戚)が、天祚帝の長男で太子候補の晋王耶律敖盧斡(ヤリツ・ゴロウアツ)と遼の宗室である上京路都統・金吾衛大将軍の耶律余睹(ヤリツ・ヨト、晋王の叔母の夫)と対立していた。 そのため、蕭奉先は妹の蕭元妃が産んだ秦王・耶律定を太子とすべく「余睹による晋王擁立の陰謀あり」と讒言し、天祚帝はこの言葉を信じてしまった。

  そのため、危険を感じた余睹は金に降ってしまった。 間もなく 天祚帝は晋王の生母の蕭文妃を賜死させ、さらに翌年1月 擁立の疑いを持たれた晋王を絞首刑に処した。 蕭奉先の思惑通りに秦王が太子として定まった。 そして 翌年の保大2年(112237日)、天祚帝は再び親征する。 女真人の金から攻撃を受けた遼帝国の天祚帝は、金の太祖と入来山で合戦、矛を交える。 しかし 天祚帝は、再び 大敗して長春に逃れ、従軍を整えなおして 長春から西の雲中の陰山に逃亡してしまったのである。 

この時、耶律大石と李処温(リショオン、宰相)とともに燕京(現在の北京)において、第7代興宗の孫 天祚帝の従父の耶律涅里()を半ば無理やりに擁立して、天錫帝(テンショウテ)として北遼を建国するが・・・・・耶律涅里()は、天祚帝が金の太祖に入來山で大敗し、長春に逃れた時、宗室の御営副都統の耶律章奴らは第8代皇帝・道宗の皇太甥だった涅里()の擁立を目論んだ。 しかし、涅里()は章奴の使者を斬首し、わざわざ長春に赴いて天祚帝に謁見したため、天祚帝から感謝され秦晋王に冊封され、都元帥に任じられていた。 

そこで、宗族の耶律大石と宰相の李処温らは、3月にあまり乗り気ではない耶律涅里()を擁立し、さらに李処温の子の李奭(リソウ)が皇帝の衣装の黄袍を用意していたため、涅里()は成り行きで即位させられ、北遼の初代皇帝・天錫帝と名乗る。  耶律涅里()は文学に長じてており、人心を魅了できる巧みな文人皇帝あることを望まれていたのである。 この天錫帝を擁立した折に、大石らは勝手に天祚帝を「湘陰王」に格下げしてしまった。

しかし、同年(1122年)の624日に天錫帝は崩御してしまう。 享年61、在位期間は90余日であった。  ただ、天錫帝は大石を軍事統帥に任じ、国家防衛を一任していた。 以降、大石は軍事面で北の金、南の宋の侵攻を知略を用いて翻弄していく。 宰相の李処温は政治的な振る舞いで遼帝国の温続を計ろうとするのだえるが・・・・・・。

ウイグル民族

=== 続く ===

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