創作; “光の庭”のうたた寝 =007=

❢❢❢ 遼王朝皇族が耶律大石、王朝再興賦 ❢❢❢

希望

❝ =第一章第1節_07= 遼王朝崩落 ❞

漠々と荒涼な原野を 牛車に揺られながら 蕭徳妃(ショウトクヒ)皇后が無言で進む。 背後から耶律時に抱くように支えられて馬上にある秦王が進む。 精悍な眼光を四辺に向けつつ、耶律大石が無言で騎馬兵を引率して行く。 三十数名の騎馬武者集団である。 耶律大石の心は重い。 遼の再興を期して擁立した天錫帝があっけなく崩御し、 共に立った李処温(リショオン)は宋に寝返り、私欲で遼を売った。先年の6月に天錫帝(テンショウテイ)が61歳で病没すると、その未亡人の蕭徳妃・蕭普賢女を摂政とする条件で、李処温と天祚帝(テンソテイ)の五男の末子である太子だった秦王・耶律定を即位させて擁立したのであるにもかかわらず。 しかし、李処温は政策面で大石らと対立した。 そのため、彼は秦王と蕭后の身柄を確保し、北宋軍総帥の宦官の童貫(ドウガン)と内通して、謀反を企んでしまった。 さらに、金とも密通した。 彼の陰謀は天祚帝が燕京の玉座を温めていた頃からであろうと思われるが、その事実を金の総師・阿骨打が捕らわれの身であった大石に教えた。

耶律時・遥兄弟の知略で阿骨打の捕らわれから脱出した耶律大石は、南京(燕京/北京)に走り、いの一番に李処温親子に天誅の処刑を行った。 そして、時を置かずに蕭徳妃皇后を説き伏せ 燕京を離れる準備を急いだ。 年が変わろうとする前に、蕭徳妃皇后の信任篤き老将である北遼・天徳軍の耶律尚(ヤリツショウ)将軍に遼王朝の宝物を五原に搬出すべき別働隊を送り出した。 寄せる阿骨打に燕京を委ねる雪辱を少しでも和らげる手配は済んだ。 また、宝物運搬隊や秦王警護隊の動きを惑わす囮の別働隊も燕京を出立していた。 そして、大石が率いる一行が、阿骨打(アコツダ)に追われるようにゴビ砂漠の西方に逃避した天祚帝に会いに行こうとしている。

この旅程・・・・・・ ここ数日、大石は馬の鞍に悠然と身を構え 考えるも無く 天祚帝に会うべく心の準備、 “天祚帝が逃亡しなければ策はあった” に至った心証と親友・安禄明と交わした言葉の端々を考え、反芻している。 三年前の保大元年(1120年)、耶律大石は北面官=蒙古高原の遊牧民統治機構=の大林牙院(南面官=皇帝直属の秘書室=の翰林院(秘書室)に当たる)に進み上級の林牙(局長)に就いていた。 泰州(現在の黒竜江省泰来県)と祥州(現在の吉林省徳恵市)の二州の刺史を務め、遼帝国の領土が金の馬蹄に踏みにじられる様を苦慮していた。 時には 少数の兵を率いて侵略する金の軍兵を追走し領地を保全していた。

翌年 彼の任地は平州(河北省)にまでも拡大され、遼興軍節度使をも歴任するようにもなっていた。 大石は、遼帝国の領土東北部が金の馬蹄に踏みにじられれば、遊撃部隊を率いて天祚帝の本隊を援助しつつ金軍を撃退し、かつ 南方から宋の軍団が二十有余万の将兵で北上した折には 少数の兵で宋の軍勢を撃破して来た。  保大2年(1122年)3月7日、大石35歳の折、天祚帝は金の太祖・阿骨打と入来山で戦って大敗し、長春に逃れた。 女真人の金からの攻撃に迎撃し直接矛を交えた皇帝・天祚帝は、遼興軍節度使の耶律大石の遊撃軍を待つことなくこの攻撃を防ぐことができぬと独断し 長春を捨て、中京から西の雲中の山中に逃亡した。 この行為が、大石の胸に突き刺す棘であった。

歴史ー1
皇帝の避難行を知った大石は、宰相の李処温とともに南京(燕京/北京)において、天祚帝の従父である南京留守・耶律淳(涅里)を擁立し、あまり乗り気ではない耶律涅里を天錫帝として戴冠させた。 彼は、金と対峙するため、燕雲十六州で数千人の天徳軍を統率しこれを迎え撃ったが、大敗し南京に逃れ帰っていた。 皇帝の衣装の黄袍を用意された上に、成り行きで即位させられたのである。 即位した天錫帝は、国号を北遼と定め、大石を軍事統帥に任じ、国家防衛を一任した。 これに止まらず、新政権は勝手に天祚帝を「湘陰王」に格下げした。 新王朝・「北遼」は金との対抗策はあった。 しかし、6月に天錫帝は崩御した。 宋がこの不幸による混乱に乗じて、動き出したとの情報が届く。天祚帝の五男で太子の秦王・耶律定が擁立され、秦王は未だ幼く天錫帝未亡人の蕭徳妃・蕭普賢女が摂政となった。 軍事統帥・大石は北遼の国力をもって宋、金2国を相手取って戦うことは困難であると考え、宋との和平を望んだが、宋は“海上の盟”に則り 再び 燕雲十六州の攻撃準備を急いでいると知った。 時を稼ぐには宋の進軍を混乱に貶める事しかない。 金軍対策は、少数の奇襲で南下の出鼻を挫けばいい。 金の侵攻隊は三隊の編成で長城を超えて来ると言う。 阿骨打(アコツダ)は中央の本体を率いて、居庸関から八達嶺長城を超えて来るであろう。

子飼の手勢で追い払えば・・・・・。
宋軍は親友・安禄明の親父である安禄衝どの組織網を・・・・・・・・。

=== 続く ===

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