創作; “光の庭”のうたた寝 =009=

❢❢❢ 遼王朝皇族が耶律大石、王朝再興賦 ❢❢❢

オルドス
❝ =第一章第1節_09= 遼王朝崩落 ❞ 

子飼いの時・遥兄弟の知略で阿骨打の捕虜的束縛から脱出し、居庸関(キョヨウカン)の闇に紛れて 大石たちは南京に走った。 南京は陥落直前であった。 王宮内は騒然と落ち着きがない。 落城迫る中、大石は耶律尚将軍に 遼王家の財宝、また 蕭徳妃(ショウトクキ)皇后の生計が成り行く資財を五原に運び込む事を指示した。 さらに、耶律厳将軍に屈強の騎馬武者500騎を率いて、燕雲十六州の王族を結束させるべく直ちに出立させた。 事あれば万余の軍団を編成し、阿骨打の遼国土の全面支配を阻止すべしと命じていた。 耶律大石の胸中には金の野望は必ず宋の旧領域・燕雲十六州で激突する。 宋と金は支配地の約定を交わす前に、必ず陣取り合戦を繰り返すはずと大石は読んでいた。

大石は耶律尚を親友安禄明宅に走らせ、秦王と蕭徳妃皇后に状況を説明した。 説明の最後に、秦王を奉じて天祚帝の元へ秦王を送り届けるは務め、北遼帝国を蘇生させるためには燕雲十六州の王族を束ねる秦王が成人なされるまで父君である天祚帝の下で学ばれるが最善と説いた。 これが私の最後の努めとして自分に強いていると説得した上で南京を脱出してきたのである。 彼らの都落ちから時を置かずして南京は陥落した。

南京に入城した時、金の群臣は阿骨打(アコツダ)に 「宋軍は南京攻略の役に立たなかった事実により、南京の宋への譲渡を拒否してはどうか」と言上したと言う。 しかし、阿骨打は盟約“海上の盟”の尊重を理由にその進言を退け、沈黙する住民の財産を略奪した後、事実上の空城を宋に明け渡し 南京以下漢中の六州を宋に割譲すると明言した。 その上で、宋に必要経費の数倍にあたる戦費を請求すると言い渡した。 遊牧民の実利重視の方針を明確に示したのである。 宋が支払わなければならない金額は、=銅銭百万緡、兵糧二十万石=。

その結果、遼帝国の皇族が領地であった燕京十六州は金と宋の勢力争いの地帯と化した。 この地帯は西方でオルドスに接し、オルドス地方は西夏王国の勢力が勝っていた。 「オルドスを征する者天下を征す」と古来より言われてきた豊潤な大草原地域。 その外周を黄河が流れる。西蔵高原に発した黄河は黄土高原を北東に流れ、漢北平野に流れ落ちる前に大きく逆U字型に屈曲する。 オルドス・ry-プと言われる流域である。 この迂回して流れる逆U字型の頂部(北端部)はゴビ砂漠の西端が接している。 その北側に禿山の連山である陰山山脈の山麓がゴビ砂漠の北縁である。

オルドス地方の南部を東西に万里の長城が二重三重に走っている。 歴史的には、紀元前6世紀から2世紀にかけて遊牧騎馬民族によるオルドス青銅器文化が栄えていた。 中央ユーラシアに長く君臨した遊牧騎馬民族の匈奴が東の中心に据え、趙、秦、漢によって次々に征服され、突厥が支配し、ウイグルが帝国を築く。 北の騎馬遊牧民と南の農耕定着民が鬩ぎ合った結果、南部に万里の長城が築かれた。 巨視的に伺えば、中国史の縮図のような地域である。 その最北部の西端から南下を開始する東端あたりの黄河は ゆったりと流れ、河原は広く 本流はどれか判別できぬほど 自由気ままに広がり、蛇行している。 南下して燕雲十六州の西部域を縦断するまでの黄河は、どこが川床であるのか 本流はどれなのか いや 明確な堤すら見いだせない大様さが支配する。

また、このような黄河に三方を囲まれた広大なオルドス地方は全体がおしなべて平坦な草原である。 西方に丘陵が横たわるが、東方はいつしか黄河の広い河原となり 黄河を離れて東行しれば山西雲中(大同市)に至る。 山西雲中は燕雲十六州の中心城郭である。 陰山の五原はこの黄河大屈曲部の北端に接する葦原の湿原地帯にある。 背面はゴビ砂漠と陰山山脈の西端部であり、 陰山山脈西縁部を北に縦断すれば、蒙古高原に抜ける容易にして重要な交易路がある。

九曲黄河
耶律大石が目指す陰山の五原には帝都を放り出した天祚帝(テンソテイ)が金の勢力から逃避して、隠住生活を自ら課している。 天祚帝は遼帝国の最後の皇帝に成ろうとしている。 遼王朝歴代で第9代皇帝である。 彼は第8代皇帝・道宗(ドウソウ)の子である、聡明な皇太子・耶律濬(ヤリツシュン)の長男として生まれた。 幼名は阿果。 父の耶律濬は梁王であった。 しかし、太康元年(1075年)11月 父が政争に巻き込まれ、無実の罪に陥れられた。 誣告の虚言を信じた祖父・道宗皇帝は聡明さで将来を期待した長男の濬皇太子を幽閉した。 耶律濬は「我何の罪あってここに至らん」と抗弁したが、誣告者・耶律乙辛(ヤリツ・オトシン)が幽閉先で皇太子を暗殺してしまう。

 

更にまた、道宗皇帝は皇太子濬の妃を後宮に召そうとしたが、それを知った誣告者乙辛が濬の妃をも殺害してしまった。 後日に、皇太子が冤罪と知って後悔した道宗皇帝は孫の阿果と延寿(天祚帝の妹、後の秦晋国長公主)を引き取り養育し、徐々に乙辛の陰険さを悟るようになった。 不安に感じた乙辛は大康7年(1081年)、皇太孫に加害しようとして露顕し、翌々年、兵器を匿い宋に逃亡しようとしたところを誅殺された。 道宗皇帝の後嗣は皇太子濬一人であった。 年老いた道宗は故皇太子を憶う心が強まり、遂にその子阿果を召して皇太孫に立てた。 周囲の皇族は皇帝の甥である人望篤き耶律淳(後の北遼・天錫帝)を推挙するが、道宗は阿果への懺悔の念が強かったのであろう。

乾統元年(1101年)、第8代皇帝・道宗が他界、祖父道宗の崩御により梁王に冊封されていた阿果が遼帝国第9代皇帝皇帝に即位して天祚帝と号したのである。 しかし、彼は暗愚な性格で政務を顧みず、諫言した臣下に対しては処罰を以って臨むなど、民心の離反を招いた。 外交面でも天慶5年(1115年)に遼に従属していた女真族の阿骨打がを建国して独立すると、討伐軍を派遣したが逆に大敗して、陰山に逃げ込み 遼の弱体化を露見させる結果を招いていたのである。

=== 続く ===

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