創作; “光の庭”のうたた寝 =017=

❢❢❢ 遼王朝皇族が耶律大石、王朝再興賦 ❢❢❢

太行山脈-6

❝ =第一章第2節_04= 陰山・五原 ❞ 

未だ、春が訪れぬ夕刻 四辺を眺めるでもなく、耶律大石は寒風に身を晒し、佇み 考えていた。 大小の湖面が散在する風景、湖面は氷結しているのであろう。 草木は全て砂漠と同色の茶色。 音も無く、生命の営みは見られない。
《この王庭、わずか 三万足らずの陣容で、皇帝は 動こうともせず、間諜を都に送ろうともせず 西夏にのみ 誼を取り、己が延命のみを考えている》・・・・・のか。
《皇太子の摂政・蕭徳妃(ショウトクヒ)皇后さまのみが この局面を打開しようと 待っておられる》・・・・・されど、・・・・・。

先月、酷寒を就いて耶律尚将軍が太行山脈を踏破し、氷結した黄河を利用して辿り着いていた。 南京が落城する前に運び出した遼王朝歴代が蓄積した宝物を800名の騎馬武者がそれぞれ二頭の荷馬を牽いて運び込んでいた。 その中には、蕭徳妃皇后の宮廷生活に纏わる品々や金銀銅貨が含まれている。 この地で亡命生活が長引くとも、また この地で再起を計る手立ての軍資金は十二分に運び込んだはずであるが、その管理は蕭徳妃皇后の専権である。 耶律大石は自分達が即位させた秦王・耶律定の摂政として、この地・五原に同行した蕭徳妃皇后を天祚(テンソ)皇帝が仮寓生活の慰み者、いや 妃にしようとしているのであろうと推測している。 蕭徳妃は北遼初代皇帝・天錫帝が寵愛した皇后であった。 耶律定とは血のつながりはない。

老将の耶律尚将軍は、英明であった第8代皇帝・道宗(ドウソウ)の信任篤き金吾衛大将軍であった。 道宗皇帝が崩御したおり、 道宗皇帝の遺言として天祚帝の擁立を託された皇族の一人であった。 彼の一言で天祚帝の即位が決まったのである。 従って、即位後の天祚帝は耶律尚将軍を筆頭に先帝の政事を履修したが、天慶5年=1115年=に遼に従属していた女真の阿骨打(アコッダ)が金を建国して独立すると、周囲の諫めを無視して討伐軍を派遣した。 しかし、逆に大敗、遼の弱体化を露見させる結果を招いた。 天祚帝はその雪辱な敗北の責任を耶律尚将軍に押し付け、彼を引退させていたのである。 耶律尚将軍引退した老将とはいえ、遼帝国の天祚帝の性格やその能力を良くわきまえおり、この王庭で起きる微細な事などを大石の耳に入れていた。 大石のこの地での立ち振る舞いは、彼が知らせてくれる情報を踏まえていた。

老将軍が伝えてくれる宮中の些細な事柄から蕭徳妃皇后の意を汲みとった大石は、事あるごとに天祚皇帝に異議を唱えて行った。 未だに幼小の末子の冠位を剥奪していないにもかかわらず、皇帝が秦王皇太子を疎み始めた理由は、摂政皇后の美貌に起因しているのでは・・・・・また “皇太子の存在が摂政皇后の天祚への拒否に結びついている” のでは・・・・・・・ また 天祚の佞臣である耶律隆先(ヤリツ・リュウセン)が私を亡き者にしようとしていると・・・・・・・

天祚皇帝は耶律大石の人望に 武勇に 英知に嫉妬していた。 天祚帝は、もとより 帝たる器ではない。 実子である皇太子・秦王を擁立する大石が目障りであった。  大石の献策を退け、西夏との誼を密にする策動以外に行動せず、華中の帝都・燕京の状況などには 全く関心を持たなかった。 ただ、天祚皇帝は大石が保護するがごとく支え励ます天錫帝の未亡人・蕭徳妃の美貌のみが日々の関心事であった。 また、若き蕭徳妃皇后が幼き秦王を養護し、摂政するいるさまに秦王を皇后から遠座けさせていた。 事あるたびに 皇后を孤立させたが、後宮に入れる策動は成功していなかった。 皇后は大石を支えにして、帝の要求を拒み続けているように思えた。

太行山脈-4
今日もまた天祚帝に与えられた吾妻屋の前で大石は、漠然と思案に耽っていた。 近辺に佇む配下の者はいない。 吾妻屋に一人 寝起きしているのだ。 時が過ぎたのであろう、大きな太陽が傾いていた。 草木の上辺が赤く染まり、氷結している湖面も陰影を濃くしている。  気づかぬうちに、吾妻屋の傍に僧姿の耶律楚詞が立っていた。 彼の影が長く伸びている。 大石は 今 その影に気付いたように顔を上げ、逆光で判別できない影の主体を一瞥してその傍に歩み寄って行き、笑みを浮かべて 声を掛けた。「安禄明はいかがであった、それに 安禄衝殿は壮健であられたか・・・・ 」 その声にはねぎらいの暖かさがある。
「これに、安禄明様の文が 」
「して、安禄衝殿には・・・・」
「安禄衝さまは、宋との戦いに金の将軍として耶律余睹殿が善戦されている事をお喜びで御座いました。 ただ 西夏の要人、セデキ・ウルフ様からの知らせとして 天祚帝様が誼を図ろうとするも西夏王は確たる言質をお与えに成る考えは無いと 申されました。」

「ウム、さもありなん。 安禄衝殿の御家族は息災で在られたであろうが、都の様子は いかがであったかのぉー 」
「安禄明様の計らいで、いろいろ見てまいりました。 総じて、民に落ち着きがなく感じました。 諸将も北と南からの重圧に耐えきるには、帝が不在の今 軍事統師殿の御旗が必要と言っておりました。」

「耶律余睹殿には お会いしたかな? 」
「いや、 燕雲十六州の太原に向かわれておりお会いできませんでしたが、安禄明さまは声を落とされて 『余賭将軍は一途な方、武弁のみで 大石殿のように政経が無い。 金の阿骨打に御されなければ良いが』と申されておりました。」

「いつ 都を離れたなかな?」
「十日ほど前 太行山脈を超えて 当地に 」
「騎馬より 早掛けじゃなぁ・・・で、山西・雲中のようすは 」
「南宋の間者が入り込んでいるもよう、この王庭にも居るやも 知れません。 また、統師さま、 いや 兄上が命じられた200名の騎馬武者を率いる耶律厳将軍は、燕雲十六州の有力な皇族を束ねる耶律涅魯古(ヤリツ・デツロコ)殿と行動を一にしておられるとか・・・確かな組織を作り上げている模様でした。」
「耶律涅魯古どのと言えば、耶律重元(ヤリツ・ジュウゲンの忘れ形見。 耶律重元殿は武勇にすぐれ、眉目は秀麗で、寡黙だが人望があった方。 天下兵馬大元帥であられた太平9年=1083年=に反乱の疑いを掛けられ、長子の解里殿ともども自刃された武人。 重元殿には未だ見まえぬが・・・・・・)

「兄上の身辺は・・・・」
「こちらが自若でも、皇帝が苛立っているのぉ、そろそろ 動きがあるかも知れぬ。 また、ここに駐屯する兵は、望郷の念が目立つように成ってはいるが、皇帝が動かねば兵も動けぬ・・・」

「さて、何もないが、 皇后様からの雉を戴いておる、都では口に出来ぬが・・・濁り酒に雉。 僧姿の身には罪かも知れぬが 慧樹大師も目をつぶられよう、中で 続きは聞こう・・・・」

2015-02-14_1

=== 続く ===

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