創作; “光の庭”のうたた寝 =024=

❢❢❢ 遼王朝皇族が耶律大石、王朝再興賦 ❢❢❢

スバシ故城-1

❝ =第一章第2節_10= 陰山・五原 ❞ 

シルクロードを天山山脈の西方の中央アジアから交易を求めてソグドの民は東進してきた。 4-,

500年前の事である。 彼らは、シルクロード沿線の各地にコロニーを築き、定住して行った。 安禄明の遠祖は康国=サマルカンド=のソグド人である。 安家はソグド人と突厥の混血である安禄山と血のつながりがある。 華北の経済を収握するソグド人、政治的に帝国運営を計略するウイグル族、軍事的に征服王朝を築き上げた遊牧騎馬民族の耶律氏一族。 それぞれを代表する若き駒が、今宵 一堂に座し杯を交わしていた。

もともと、ウイグル族はゴビ砂漠北方のモンゴル高原に覇を唱え、南下した民族である。 契丹人が満州地方で政権を樹立した916年より170年ほど前に蒙古高原全域に回鶻可汗国(ウイグル・カカン国)が覇権を打ち立てていた。 その政権は、東方は満州の東部域から西方のアルタイ山脈南・天山山脈の東部域に及び、南は唐と境を接していた。 安禄明の遠祖であるソグド人安禄山が755年に唐の玄宗皇帝に対し“安史の乱”を起こした時、唐の皇女を妃に迎えていた回鶻可汗国のブグ・カカン≪国王/可汗≫が10万の軍勢を率いて安史の乱を制圧した。

しかし、遊牧生活が基本であるウイグル族が大挙して長城の南に入った結果、彼らは漢文明に溺れ、我が物顔でふるまい始めた。 そして、ウイグル族は唐王朝から排斥された。 折しも、蒙古高原では冷害が続き、家畜は死滅し、漢中からの流行り病が蔓延した。 回鶻可汗国内は内乱状態に陥り、北方の遊牧民・キルギス族が南下を開始した。 回鶻可汗国は連合国家であった。 その一派が黠戛斯(キルギス族)を呼び込み、回鶻城(オルド・パリク)は焼き払われ、回鶻可汗国は崩壊した。 850年の頃であった。 可汗国を構成していた諸部族はそれぞれに分散して行った。

遊牧ウイグル国家を形成していた諸部族の指導者は東西に己の部族を導き、移動して行った。 宿敵であった葛邏禄(カルルク)と共に天山山脈西方の中央アジアに侵攻して土着して行った。 吐蕃=河西地方の西蔵圏=と安西=タクラマカン砂漠のタムリ盆地=に逃げ込んだ。 彼らは継承国家を樹立して行った。 天山ウイグル王国、甘州ウイグル王国、高昌国、等々の継承国家をタムリ盆地縁辺に樹立して行った。 蒙古高原の東方に移動する一族を導いた指導者が石抹言氏の遠祖であり、燕京一帯の経済を動かしていたソグド系の安氏一族や史氏一族とは共に色目人=中央アジア系の民族が東方に移住し、中華文化圏で呼ばれた総称=であり、結び付くのは早かった。 900年頃、中国北辺から蒙古高原の東部にまで勢力圏を拡大し始めた契丹人の耶律阿保機(ヤリツ・アボキ)が征服王朝を開闢すると、智謀知略に富むウイグル族が政策官僚として、ソグド人が経済界を動かす要人として遼帝国を支えたのである。

石抹言(セキ・バイゲン)の氏は代々 契丹貴族として遼帝国の耶律王家に皇妃として娘を嫁がせる蕭(ショウ)一族と婚姻関係を結べる一族であり、ウイグル出身者として遼王朝の有力な貴族であった。 遼国内のみならず黄河が流れる一帯で彼の一族を知らない色目人はいない。 更には、西夏王国は勿論の事、西方の河西地方から敦煌まで地域で、安西に割拠する甘州ウイグル王国。 東部天山のビシュパリク(北庭) - カラシャール(焉耆) - トルファン(高昌)を結ぶシルクロードの要路、タクラマカン砂漠のタリム盆地北縁地域を勢力圏にしている西ウイグル王国(天山ウイグル王国)。 また、タリム盆地南縁のホータン王国。 これらの王国は石抹言の父祖がウイグル・カカン王国の崩壊にて東に走った折に前後して西に逃散したウイグル・カカン王国の部族長が建国した諸国。

したがって、これらの国の統治者に石抹言が自家の素性や来歴を名乗れば、同門の権能者として、また 同根の部族指導者として、通じたのである。 事実、石抹言の長女である石チチカは西夏王国の宰相セデキ・ウルフに嫁いでいる。 女真族の阿骨打(アコッダ)が帝都・南京(燕京)に迫っている今、抹言は己の立場を自覚する故、愛する年頃の娘を西方に逃すのが何にも勝る急務なのだと信じていた。 耶律楚詞の出現が、安全に、いや 予想だにしなかった最高の方策で西夏のチチカの下にチムギを旅立たせることができる話に、抹言は小躍りしたくなる喜びを感じながらも、その喜びが言外に現れ、壊れるのではないかと不安を思い堪えていた。チムギは自由闊達な女性である。 体を動かすことが好きな娘である。 文より剣が好きで、その腕前はかなりのものである。 西方の血筋が顔、形に現れている。 美しい女性である。 黒い髪、大きな目の瞳は黒い。 その瞳には力があり、その目が形の良い鼻梁のやや奥深くにある。 二重の瞼には長い睫毛、眉はやや直線状の曲線。 その彼女の眼差しが楚詞から離れない。 楚詞は、庭先で奏でられる民族音楽・ムカムに、話に聞く天山の異郷を思っていた。 耶律楚詞は言うまでもないが、北方から南進した騎馬遊牧民、内モンゴルを中心に中国北辺を支配した耶律氏の一族の青年皇子である。 200有余年続く遼帝国の第9代皇帝である祖父・天祚帝が父の耶律敖盧斡(ヤリツ・ゴロウアツ)を死に追いやらなければ皇太子として、遼帝国の政事に参画したかもしれない青年であった。

2015-02-11_02

=== 続く ===

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