創作; “光の庭”のうたた寝 =047=

❢❢❢ 遼王朝皇族が耶律大石、王朝再興賦 ❢❢❢

雪原ー1

❝ =第一章第3_16= 五原脱出

蒙古高原に抜け出る隊商路は陰山山脈西端部に位置する山間を遡行する。 陰山山脈の西端南部の山麓にあるバヤンノール邑で山越えの準備を整えた耶律大石統帥一行七名が山間の溪谷に踏み込んで二日目である。 小雪が舞い、視界は乳白色の霧に吸い込まれていく。 さきほど、谷間の上方から人の笑い声らしき音に、耶律遥、曹舜(ソウ・シン)と畢厳劉(ヒシ・ゲンリュウ)が確認の為に先行したが彼らの姿は霧の奥に消えて行った。

「統師さま、 お伺いしてもよろしいでしょう・・・・・・」
「チムギ殿 なにごとかな 」

「はい、 失礼かもしれませんが・・・・統師さまは私どもの 火の神ミスラさまに深いご理解を頂いておりますとか兄より聞いております・・・・」

「そうでござったか、義兄に当たられる安禄明殿から教えられて・・・  チムギ殿、小雪が舞う中、馬に揺られながら 話すのは、都合がいいかも知れぬ。 視界が周囲の景色に惑わされることなく、耳から得られる情報だけで話が率直に頷けるであろう・・・・・ 顔の表情を伺われては、話しずらい。」

「私も 聞きたいです、父より 少しばかり聞いておりますが・・・・」

「楚詞も聞いておくがいい、 私が進士に成ったのが27歳の春であったかのぉー 翰林院に参内してすぐ、安禄明殿にお会いした。 二人とも若かった。 時を忘れて 毎夜 互いに酒を交わして話をした。 当時、儂には妃がいた。 名は昭徳蕭と申して、美しい女子じゃつた。 子供も三人授かっておった。 姫は二人 可愛かったのぉ・・・」

「昭徳蕭さまの お美しさは 父より伺ったことがございます 」

「・・・ あれは忘れもせん、珍しく 都に11月に雪が舞った日であった。 何者かに昭徳蕭と我が正嗣の皇子と娘二人の・・・・・・ 総べたが 一夜にして殺害されてしまった・・・・・・、 その夜は 明殿の家で遅くまで話し込んでいて 下僕が走りこんできたのじゃー」

「なんと・・・・・」

「儂の父は幼いころに死に 血を分ける姉妹兄弟はおらぬ、一夜にして愛する妃と家族を亡くし 打ちひしがれてしまった。 30歳であったかのー・・・・・・。 明殿が事件の背景を全て調べてくれた。 宋の陰謀が絡んでいたのだが、ある日 明殿が アフラ・マズダーザラシュトラ様の話を聞かせてくれた。 そして、日を置かずして、秘密の集会にも連れて行ってくれた。 何時しか 儂は 一人で 密かに参集に加わるように成ったのじゃ」

「以来、アフダ・マズダ様とブッダ様と昭徳蕭が儂の心の中に何時もおる。 ハァハァハァー 若い二人には ちと、心を痛める話をしたようじゃが、明日のことは判らぬ、しかし 今を全力で生きることが 明日に繋がるとおもっている・・・・・二人は どうかな・・・・・ 」

三人がそれぞれ 己が感慨に耽りながら駒を進めて行った。 一時の後 雪を蹴散らせて近づく、凍てつく路面など意に介せずに駆け下って来る騎馬が蹄の音が聞こえてきた。 そして 時間を置かずして、「統師さまー 統師さまー、耶律軍事統師さまー 」と叫ぶ声が前方の白き幕の奥から聞こえたかと思うと その幕を突き破り、三頭の馬が彼らの前方に現れてきた。

毛皮を着込み、その毛皮・顔に白き雪がまぶり付いているようだ。 馬の息が白い。 小雪が吹き舞う山道を駆け降ってくる。 その声は耶律遥のものであろう。 耶律遥と曹舜と耶律磨魯古の三人が 飛ぶように駆け戻って来たのである。

黄河

欽宇阮(コン・ウゲン)と何蕎(カ・キョウ)は二十騎の騎馬武者と共に 凍てつく黄河沿いに鳥海を走り抜け西夏の興慶(現在の銀川)へと南下していた。 耶律大石が五原を離れる五日前のことである。 黄河が屈曲して東方に流れる地点で蒙古高原の北庭都護府・可敦城へ運び込む越冬兵糧と弓矢を準備している耶律磨魯古が率いる三十余騎と兵馬20頭に別れての行動である。 彼等は、東方約80キロの包頭集落から送られてくる“燃える黒い石”を待っていた。 早朝に出立した石隻也が燕京に伝令に走る途中で手配する荷物である。 また、鳥海で買い付ける荷物も少々残っていた。 したがって、耶律磨魯古の運搬隊が陰山山脈を越える資材運搬に出立つたは、欽宇阮が興慶の向かった三日後のことである。1225年12月11日。 何蕎が先導する阮と二十騎の騎馬武者は鳥加河を離れ、鳥海に至った頃には太陽が頭上にあった。 鳥海にて何蕎は、馴染みの商人宿の主人に耶律磨魯古が運び上げねばならない兵糧資材の不足分を手配し、また 鳥加河へ搬入することを依頼した。 隊商を取り仕切る主人の義侠心を知る何蕎は西夏宰相の私事であると煙幕を張って、資材を手渡す耶律磨魯古への支援を依頼して西夏の帝都への先を急いだ。

興慶(銀泉)への道は、黄河に沿って南下する平坦な通商路であるが、路面が凍りついている。 踏み荒れた道であるが故に、馬脚を気遣いながらの早駈けである。 この先の石嘴山村落を過ぎれば興慶の城下には日が落ちる前に入るころができる。 日が落ちてしまえば、城門は閉ざされ 寒空の下で野営しなければならない。 何蕎を先頭に欽宇阮と二十騎の騎馬武者が石嘴山の黄河左岸を走り抜けて行った。 そして、彼らは城門が閉まる前に何とか城下に入り、疲れた体を何蕎の寓屋にて休めることができた。

07.04-2

=== 続く ===

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