剛毅なる魂、外交官・小村寿太郎 (01)

07-05-1

小村寿太郎にとって、ロシア帝国と結んだポーツマス条約が一生の正念場(しょうねんば)であった。 日本の国民は日露戦争でロシア帝国に勝ったと思っていたが、実際には、ロシア帝国には、まだまだ強大な軍隊が残っており、戦争を続けることができる状態であった。 一方、日本はロシア帝国の旅順要塞を落とし、バルチック艦隊を全滅させたとはいえ、これ以上の戦争はできない状態であった。

日露戦争の結果は、日本、ロシア帝国ともに痛み分けといったところだったのである。 そのため、日本はロシア帝国から賠償金を取ることができなかった。 このことが、国民の不満に火をつけ、ポーツマス条約反対の焼きうちなどがおこった。 だが、小村寿太郎は、このような状況の中で、ねばり強く話し合い、ロシア帝国から最大限の物を獲得していると考える。 小村寿太郎のねばり強い態度を賞賛したい。

ちなみに ;
1855年 飫肥藩の藩士の小村寛平の長男として生まれる。 / 1861年 藩校の振徳堂に入る。

1867年 大政奉還、王政復古の宣言。 天皇を中心とする政治の開始。

1870年 東京に出て、大学南校(今の東京大学)に入学。

1875年 文部省の留学生として、アメリカのハーバード大学に留学、法律を勉強。

1880年 帰国して、司法省に奉職。 / 1884年 外務省の翻訳局に移動する。

1893年 外務大臣/陸奥宗光に才能を認められ、北京の公使館の参事官になり、各国の公使を兼務。

1901年 第1次桂(かつら)内閣の外務大臣に就任。

1902年 小村寿太郎が、ロシア帝国の南下に対抗するため、日英同盟を結ぶ。

1904年 日露戦争がおこる。 日本は大苦戦の末、何とかロシア帝国に勝つ。

1905年 アメリカのポーツマスでロシア帝国とポーツマス条約を結ぶ。

1906年 外務大臣を辞任する。 / 1908年 第2次桂内閣の外務大臣になる。

1911年 不平等条約の改正(関税自主権の獲得)に成功。 外務大臣を辞任。

その3か月後、病死する。  =57才=

07-05-2

❢❢❢ 博学なネズミ ❢❢❢

「日本にはまだ外交はないのだ。 真の外交はこれから起こってくるのだ」――。
明治26年(1893年)の暮れ、駐清代理公使として北京に旅発つ折、小村寿太郎は外交官としての決意を語った。 日清戦争が始まる半年余り前のことである。 9年も続いた、泣かず飛ばずの外務省翻訳局長時代に終わりを告げ、やっと本領を発揮できる好機が訪れたと、小村は拳を握りしめた。

それから18年、日清戦争、三国干渉、日英同盟締結、日露戦争、日韓併合と続く激動の明治にあって、欧米諸国と対等の位置に立つべく近代日本を牽引した敏腕外交官が、小村寿太郎、その人である。 身長約156cmの痩身、目はくぼみ、頬はこけ、口髭をたくわえた、まるでネズミのような風貌に各国の公使たちは「ねずみ公使」と名付け、同朋たちは「チュー公」と敬愛を込めて呼んだとされる。

1855年9月26日、現在の宮崎県日南市に生を受けた小村は、少年時代から頭脳明晰、学力優秀であった。 15歳で藩校優秀生として選ばれ長崎で英語を学び、翌年にやはり藩からの推薦を受け、大学南校に入学した。 大学南校は明治政府が洋学を教えるために設置した教育機関であり、外国人教師による外国語学、西洋地歴が必修となっていた。 今日の東京大学の前身である。

明治維新から間もない、日本がアジアで最初の西洋的近代国家へと変貌を遂げているこの時期、優秀な学生はみな海外留学を志した。 小村は他の学生たちと共に海外留学生派遣を提言する建白書を文部省に提出、第1回文部省留学生11人のひとりに選ばれた。 行き先はハーバード大学、ここでも米人学生が小村とすれ違う際には敬礼したというほど最優秀の成績を収めた。

小村は小柄=バード大学留学時のパスポートには「五」、約156cmの記述=で頭が大きく、鼻の下から口の辺りに両端の下がった貧相な髭を生やして顔は「やつれ相」で目はくぼんで頬は落ち、眉は太めで垂れ下がり、すばやい行動力などから、人にある種の小動物を連想させずにはおかず、北京では 上記のごとく 口さがない外交団から「ねずみ公使」(ラット・ミニスター)と仇名され、同朋からは「小村チュー公」と呼ばれたという=金山宣夫『小村寿太郎 モーレツ人間の光と影』=。

海軍大臣西郷従道は小村に「その身体で外国人の中にまじったら、子どものように思われましょう」と言った。 小村は「大丈夫です。 私は日本を代表して行くのですから、日本は小さくても強いですからね」と 答えたという=金山宣夫『小村寿太郎 モーレツ人間の光と影』=。  李鴻章と対面した際、巨漢の李に「この宴席で閣下は一番小そうございます。 日本人とは皆閣下のように小そうございますか?」と、背の低さを揶揄されたのに対して、「残念ながら日本人はみな小そうございます。 無論閣下のように大きい者もございます。しかし我が国では『大男 総身に智恵が回りかね』などといい、大事を託さぬ事になっているのでございます」と、切り返したという。

07-05-3

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===== 続く =====

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