剛毅なる魂、外交官・小村寿太郎 (02)

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 小さい体ながらも侮られることなく、むしろ畏敬をもって迎えられた小村は、常に冷静沈着で寡黙、威風堂々としていたという。 その知性と品位は、生涯を通じ暇さえあれば没頭したとされる「読書」によって培われたものといってよい。 小村ほど読書に時間を割き、あらゆる分野において博学な政治家はいなかったといわれる。 若い時分より、ひとつ問題があると、それに関連して書籍を3、4冊読み、読んでは熟考し―、を解決の糸口とした。 読書について小村は「書物は、批判的にその所説が正しいか否かを沈思黙考し、納得してはじめて知識の材料として使うべし」と語っている。

中でも繰り返し愛読したのが、小泉八雲の『神国』と、新渡戸稲造の『武士道』だったという。 「日本の光は武士道根性である」―。 小村はたびたびこう語った。 鹿鳴館時代という欧化政策が進み、ともすると欧米崇拝思想に陥りやすい時代背景の中、留学し、英語はもちろん、フランス語、ロシア語を習得し、読書の大半は洋書であったという小村を支えたのが武士道根性、大和魂だったのである。これは小村の外交術に一貫した思想であり、この国粋主義の思想がたびたび日本の危機を救ったことは特筆に値する。

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❢❢❢ 外交官として清へ ❢❢❢

翻訳局長から外交官となる切符を小村に手渡したのは、外務大臣になったばかりの陸奥宗光であった。 小村は、第1回文部省海外留学生に選ばれてハーバード大学へ留学し、法律を学んだ。 帰国後は司法省に入省し、大審院判事を経て、1884年に外務省へ転出していた。 翻訳局長であった小村と通商局長の原敬と飲み交わしていた陸奥は、その席で紡績に関する英単語の意味を原に尋ねた。
原が答えられずにいると、小村はその意味ばかりか、紡績論や綿花、英国の綿製品や価格帯、輸出入状態に至るまで詳しく解説したという。 これまで小村を冴えない「読書の虫」程度にしか評価しない外務大臣が多かったが、陸奥は小村の才能を見逃さなかった。 そして翌年翻訳局が閉鎖されると、外交官として小村にワシントン行きの機会を与えるのだった。

これに対し小村は「私としてはワシントンより北京に行かせて頂きたい」と答えている。 当時の外交官は勤務地として英国、フランス、アメリカ、ドイツを希望するのが常だった。 人気のポジションを与えてやろうというのに、日本外交として重要度の低く、国力も低下している中国に行きたいとは正気か、と陸奥は疑った。

しかし、小村は陸奥には見えていないものを見ていた。 15年前に西南戦争で恩師を亡くした小村にとって、日本外交の最たる鍵はいつも「朝鮮」であった。 征韓論に端を発する内戦であった西南戦争は西郷隆盛をも葬ったが、この時から小村は、欧米列強のアジア侵略を阻止し、自国を守るには朝鮮半島に対する日本の権益が要になると信じて疑わなかった。
日本から目と鼻の先の朝鮮半島が列強に占領されれば、日本は瞬く間に危険に晒される。 自国を守るには、朝鮮の中国(清)への臣従をやめさせ、独立国家として日本と提携させる、ひいては清とも提携し、東アジア国家として3国が手を取り合って対抗する必要性があると小村は痛感していた。 そして、そのためには朝鮮を属国扱いする清との戦争が不可欠であろうことも悟っていた。

なぜなら清は当時、国力が落ち、内政が腐敗しているにもかかわらず、日本、朝鮮を弱小国と蔑視しており、朝鮮もまた、小中華思想が抜けきれず、列強が押し寄せている危機的状況にまったく覚醒していなかったからである。 小村は陸奥に自論を吐露し、陸奥は半信半疑、小村を北京に送る。 1893年に清国代理公使を務めるために小村は帝国を離れる・・・・・・。

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陸奥宗光は、明治10年(1887年)の西南戦争の際、土佐立志社林有造大江卓らが政府転覆を謀ったが、陸奥は土佐派と連絡を取り合っていた。 翌年にこのことが発覚し、除族のうえ禁錮5年の刑を受け、投獄された。 山形監獄に収容された陸奥は、せっせと妻亮子に手紙を書く一方で、自著を著し、英国の哲学者ベンサムの著作の翻訳にも打ち込んだ。 山形監獄が火災にあったとき、陸奥焼死の誤報が流れたが、誤報であることがわかると、明治11年(1878年)に伊藤博文が手を尽くして当時最も施設の整っていた宮城監獄に移させた。

明治16年(1883年)1月特赦によって出獄を許され、伊藤博文の勧めもあって欧州に留学する。 明治17年にロンドンに到着した陸奥は、西洋近代社会の仕組みを知るために猛勉強した。 ロンドンで陸奥が書いたノートが今も7冊残され、内閣制度の仕組・議会運営方法・民主政治先進国が生み出した知識と知恵の数々を盛んに吸収したあとがみられる。 また、ウィーンではシュタインの国家学を学んでいる。

第2次伊藤内閣に迎えられ外務大臣に就任。 明治27年(1894年)、イギリスとの間に日英通商航海条約を締結。 幕末以来の不平等条約である治外法権の撤廃に成功する。 以後、アメリカ合衆国とも同様の条約に調印、ドイツ、イタリア、フランスなどとも同様に条約を改正した。 陸奥が外務大臣の時代に、不平等条約を結んでいた15ヶ国すべてとの間で条約改正(治外法権の撤廃)を成し遂げた。

一方、同年5月に朝鮮で甲午農民戦争が始まると清の出兵に対抗して派兵。 7月23日に朝鮮王宮占拠による親日政権の樹立、25日には豊島沖海戦により日清戦争を開始。 イギリス、ロシアの中立化にも成功した。 この開戦外交はイギリスとの協調を維持しつつ、対清強硬路線をすすめる川上操六参謀次長の戦略と気脈を通じたもので「陸奥外交」の名を生んだ。 戦勝後は伊藤博文とともに全権として明治28年(1895年)、下関条約を調印し、戦争を日本にとって有利な条件で終結させた。 しかし、ロシア、ドイツ、フランスの三国干渉に関しては、遼東半島を清に返還するもやむを得ないとの立場に立たされる。 日清戦争の功により、伯爵に陞爵する。
 

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===== 続く =====

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