剛毅なる魂、外交官・小村寿太郎 (03)

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  「泣かず飛ばず」と前述した翻訳局長時代、小村の実力を認める者はなく、小村は読書研究に明け暮れた。 この時期は父親が残した膨大な借金に苦しめられた暗黒の時代でもあった。 借金額は父の借金と、その返済のために高利貸から借りた金とを合わせ、現在の金額に換算しておよそ2億円。 高学歴、エリート職、高収入にもかかわらず、小村の家には家財道具が一切なく、妻と3人の子供は飢えをしのぐ最低限の生活、小村は年がら年じゅう、たった1着のコートをまとう、という生活が10年以上も続いた。

➥ ➥ ➥ 父親の借金と妻に関する逸話

父親による借財のため、生涯を通じて返済に苦労したと伝わる。 父親が事業に失敗して作った多額の借金を小村は肩代わりした。 債権者は次々と役所や小村邸に押しかけてきたが、新婚だった妻が着物を金に変えたり、見るに見かねた有志が債権者全員を集めて一部を帳消しにさせたり、減債基金を設けるなどした。

  小村寿太郎は、それでも誰にも頼らず、その生活を恥じる風もなかった。 外務省で行われる定期的な宴会には、「後払いにするから」と会費を払えなくとも必ず参加し、あきれた幹事が小村を招待しなくなっても平然と参加し続け、周囲に「到底尋常な人間ではない」と言わしめたという腹の据わりようであった。 また、新婚だった妻が着物を金に変えたり、見るに見かねた有志が債権者全員を集めて一部を帳消しにさせたり、減債基金を設けるなどした。が、小村は待ち合い通いを続けたため、夫人は赤坂や新橋を歩き回って夫の行っている場所をかぎ出し、散々に当り散らしたという。《金山宣夫『小村寿太郎 モーレツ人間の光と影』より》

あまりに気の毒に思った同僚が助け舟を出すと「他人に大きな恩義を受けてしまうと生涯その人に頭が上がらなくなる。 好意の裏には何かがあるものだ」と退けたという。 結局、見かねた菊池武夫、杉浦重剛ら、大学南校時代の旧友たち7名が立ち上がり、連帯保証人となって借金の4分の1を返済し、債主らと取り合って借金を減額させ、残りも無利息で払うよう約束させた。 小村はこの時、彼らの恩義と友情に報いるためには、ひたすら国家のために身を削るしかないと誓ったと伝えられる。

❢❢❢ 清をたおせ ❢❢❢

小村寿太郎が外務省に奉職して五年目の1889年、内閣総理大臣に就任した山縣有朋は、安全保障の観点からロシアの脅威が朝鮮半島に及ばないように朝鮮の中立化を構想した。 それを実現するため、清およびイギリスとの協調を模索し、とりわけ清とは共同で朝鮮の内政改革をはかろうとした。 しかし、そうした山縣首相の構想には、閣内に強い反対意見があった。 安全保障政策で重要な役割を果たす3人の閣僚、つまり外務大臣の青木周蔵、陸軍大臣の大山厳、海軍大臣の樺山資紀が異論を唱えたのである。

青樹外相は日本が朝鮮・満洲東部・東シベリアを領有し、清が西シベリアを領有するとの強硬論を唱え、大山陸相は軍備拡張に基づく攻勢的外交をとるべきとし、樺山海相は清とイギリスを仮想敵国にした海軍増強計画を立てていた。 もっとも、3大臣の反対意見は抑制された。 なぜなら、軍備拡張に財政上の制約があったからである。 また海軍内には、敵国を攻撃できるような大艦を建造せず、小艦による近海防御的な海防戦略も有力であった。 そして何より当時、政治と軍の関係は、山縣など元勲の指導する前者が優位に立っていた

1892年、再び首相に就任した伊藤博文は、日清共同による朝鮮の内政改革という山縣の路線を踏襲した。 ただし、第2次伊藤内閣第1次山縣内閣と同じように首相と異なる考えの閣僚が存在し、日清開戦直前に外務大臣(陸奥宗光)と軍部(参謀次長川上操六陸軍中将)の連携が再現されることとなる。

1893年、外務大臣・陸奥宗光の信任を得た小村は清国に着任早々、小村は情報収集に全力を挙げ、清政府の現状を正確に把握することに専念した。 清の国力が衰弱しきっているのを確認するや、今こそ清を抑える時だ、と日本政府に開戦を勧告している。 当時、軍人以外で開戦を叫ぶものは小村ただ一人であった。 そんな中、朝鮮の独立派の政治家が上海で暗殺された。 彼は、日本のような近代化を図るべきとしてクーデターを起こしたものの弾圧され日本に亡命していた。 死体は上海から朝鮮に祝電付きで送られ、朝鮮政府は死体を分断して市民に晒したという。 当時、清政府も朝鮮政府も日本の近代化を「西洋の物まねをするアジアの恥辱」と蔑視してやまなかった。 小村のいう「覚醒」にはほど遠い状態だったのである。

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 続いて朝鮮で内乱が起きると日清両国が朝鮮出兵し、これを機に参謀次長、川上操六も陸奥外相も小村に同調し、対清戦を決意するに至った。 こうして日本は、朝鮮を属国として武力介入する清に対し、「朝鮮の国政改革」を名目に宣戦布告するのである。 日清戦争は、陸奥が開戦を主導したとされているが、それよりもっと前に対清戦の必要性を声高に叫んでいたのが小村であった。 陸奥は「小村は何より見通しが早くそれに正確だ。 ほとんど誤謬もないようだ」と驚いた。 借金まみれの読書の虫は、想像以上の偉才と化け、以後、陸奥にとって最も心強い存在となった。

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1894年(明治27年、光緒20年)、朝鮮国内の甲午農民戦争をきっかけに6月(5月)朝鮮に出兵した日清両国が8月1日7月1日)宣戦布告にいたった。 日清戦争の原因について開戦を主導した外務大臣陸奥宗光は、「本源にさかのぼれば日清両国が朝鮮における権力競争」と回想した(『蹇蹇録』)。 近代化された日本軍は、近代軍としての体をなしていなかった清軍に対し、終始優勢に戦局を進め、遼東半島などを占領した。 また戦争指導のため、明治天皇大本営が広島に移り、臨時第七議会もそこで召集された。

翌年4月17(翌年3月23日)、下関で日清講和条約が調印され、戦勝した日本は清から領土(遼東半島・台湾澎湖列島)と多額の賠償金などを得ることになった。 しかし23日(29日)、ロシアフランスドイツが日本に対して清への遼東半島返還を要求し、その後、日本は三国の要求を受け入れた(三国干渉)。

帝国主義時代に行われた日清戦争は、清の威信失墜など東アジア情勢を激変させただけでなく、日清の両交戦国と戦争を誘発した朝鮮の三国にも大きな影響を与えた。 近代日本は、大規模な対外戦争をはじめて経験することで「国民国家」に脱皮し、この戦争を転機に経済が飛躍した。 また戦後、藩閥政府民党側の一部とが提携する中、積極的な国家運営に転換(財政と公共投資が膨張)するとともに、懸案であった各種政策の多くが実行され、産業政策や金融制度や税制体系など以後の政策制度の原型が作られることとなる。 さらに、清の賠償金などを元に拡張した軍備で、日露戦争を迎えることとなる。

対照的に敗戦国の清は、戦費調達と賠償金支払いのために欧州列強から多額の借款関税収入を担保にする等)を受け、また要衝のいくつかを租借地にされて失った。 その後、義和団の乱で半植民地化が進み、滅亡(辛亥革命)に向かうこととなる。 清の「冊封」下から脱した朝鮮では、日本の影響力が強まる中で甲午改革が行われるものの、三国干渉に屈した日本の政治的・軍事的な存在感の低下や親露派のクーデター等によって改革が失速した。1897年(明治30年、光緒23年)、朝鮮半島から日本が政治的に後退し(上記の開戦原因からみて戦勝国の日本も清と同じく挫折)、満洲にロシアが軍事的進出をしていない状況の下、大韓帝国が成立することになる。

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===== 続く =====

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