剛毅なる魂、外交官・小村寿太郎 (04)

07-08-1

 欧米の予想を裏切り、勝利を収めた日本は、ようやく朝鮮を清の束縛から解き放つことに成功した。 遼東半島、台湾、澎湖島が日本に割譲され、賠償金も獲得した。 しかし、その講和条約が成立してまもなく、ロシアとドイツ、フランスが「遼東半島は返還すべし、さもなくば武力行使する」と威嚇してきた。俗にいう三国干渉である。
列強は衰退する中国をいずれ分割しようと目論んでおり、小国の日本、しかもアジアの有色人種の国がそこに食い込んでくるなど論外だったのである。 列強を敵にまわしては勝ち目などなく、日本は遼東半島を泣く泣く返還せざるを得なかった。

➥ ➥ ➥ 三国干渉

日清戦争中、日本の勝利が間近に迫ると、列強も事の重大性を認識するに至り、干渉を考え始めた。主導国はロシアであったが、ドイツの参加がなければ干渉が実現しなかったとも言われる。西にドイツの脅威を控えていたロシアは、ドイツの干渉参加により東に深入りしやすくなったからである。

更に下関条約で遼東半島の割譲を日本が要求していることを知った列強は衝撃を受けた。列強は清朝の衰退に乗じて「清国の分割」を進めてきたが、清国内の抵抗を危惧してその動きは未だ緩慢なものであり、戦争による賠償で得たイギリス香港を例外として、露骨な領有権要求は差し控えてきた。だが、日本の要求はこの列強間の「暗黙の了解」を破棄するものであり、更に清朝が渤海を挟んで直隷(現在の河北省)と向かい合った遼東半島を失う事で、その政治的権威が失墜して国内の政情が不安定になるような事態の発生は、各国の対清政策を根底から揺るがせるものであった。 そこでドイツやロシアは自国の対清政策を維持するために、この日本の要求を容認できないと考えた。

講和会議の過程で日本は清に対して、開市・開港場での製造業従事権を要求していたものの、日本にはそれを実現させるだけの資金的裏づけがなかった。そこで日本は、秘かにイギリスに対してのみ、この要求の事実を打ち明けて共同経営の誘いを行っていた。これが他の列強に知られたため、この話に与れなかったドイツやロシア、フランスの姿勢を更に硬化させることになった。

そして干渉の結果、列強はこの干渉以降、阿片戦争で香港を得た英国の様に、中国の分割支配に本格的に乗り出すことになった。列強は清に対して対日賠償金への借款供与を申し出て、その見返りに次々と租借地や鉄道敷設権などの権益や、特定範囲を他国に租借・割譲しないなどの条件を獲得していった。

07-08-3

 三国干渉、この結果に日本国民は憤慨して当時の外交を非難したが、最も屈辱を感じたのが小村であった。 この三国干渉の恥辱を晴らすことこそ小村の次なる課題となったのである。 それでも、政界ではいまや小村の名を知らぬものはいなくなった。 三国干渉という手痛い仕打ちを受けたものの、清を相手に日本を勝利に導いたのは、小村の鋭い洞察力と先見の明にほかならない。 また、日清戦争中、小村は民政庁長官として山県有朋大将に随行し、人民の保護に尽力した。 戦争では略奪などが起こるのが常であったが、小村はこれを取り締まり、日本軍が敵国住民の慰撫に努めることを徹底させた。 これにより、人民から食糧や車両の調達が容易になったことも勝利の一因であった。

三国干渉後の数年、日本外交は最も苦渋を強いられた。 ロシアは朝鮮の独立心が弱いのをいいことに、あの手この手で朝鮮をたぶらかし、支配下におこうと画策。 事大主義という強者に迎合する外交政策をとっていた朝鮮も、三国干渉に日本が屈服すると、あれよという間にロシアになびき始めた。ロシアは朝鮮および清と密約を結び、戦争という犠牲を払わずに満州北部での東清鉄道の敷設権、さらに膠州湾、旅順、大連の租借権をも得るなど傍若無人に振る舞っていた。 そして列強も清の租借を始め、ひたひたと東アジアに足場を固めてきていた。

結局、日本は戦う相手を清からロシアに変えたに過ぎなかった。 しかし、朝鮮半島が自国を守る砦である以上、それは避けられない戦いであった。 列強の侵略から東アジアを守ることは、アジアで初めて西洋化近代国家となった日本の宿命であった。 少なくとも小村はそう信じていた。

07-08-2

❢❢❢ 列強の一員に ❢❢❢

外務次官、駐米大使を経て、1900年駐露大使となり、サンクトペテルブルクに赴任した小村は、着任後まもなく北京に戻らざるを得なくなった。 清で外国人排斥運動の「義和団事件」が起き、この講和となる北京会議に日本代表として出席することを命ぜられたからである。

この事件で清政府は、外国人排斥運動を鎮圧するどころか国軍に外国人を討伐させたため、ロシア、英国、フランス、アメリカ、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリア、日本の8ヵ国からなる連合軍が出兵することになった。 日本は初めて列強と肩を並べて戦うことになり、8ヵ国中最大の一万もの兵を派遣し鎮圧に努めたが、一方のロシア軍は、騒乱に紛れて、満州を軍事占領してしまう。

これは、世界列強にロシアのモラルのなさを明示するとともに、日本の勇敢さ、文明国にふさわしい規律のよさを知らしめた。 日本軍は列国の中で最も多くの戦死者を出しながら、他国軍に横行していた略奪行為は一切働かず、紳士的な態度で戦いに挑んだ。 「ロンドン・タイムズ」の北京駐在特派員であったジョージ・アーネスト・モリソンは、日本兵の武勇さと団結の素晴らしさを絶賛している。

小村はこの出兵が、世界の表舞台に立つ重要な場と心得えていたから、兵力は列強に決して劣ることのないよう事前に政府に申し入れていた。 そして講和会議に至っては、日本の実力を列強に知らしめる好機になると見越していたのである。
「日本が世界の舞台に出て仕事ができるのはこれからです。諸外国は初めて日本兵の恐るべきことを悟ったでしょう」、講和会議を前に小村は武者ぶるいを隠せなかった。 世界列強を相手にこうした信念と度胸を兼ね備えた政治家は小村だけであり、この大役を引き受けられるのも彼のみであった。

時の首相、伊藤博文は小村を北京に送る際「列強団は我々日本を本当に仲間として加えてくれるのだろうか」と小村に尋ねている。 鹿鳴館時代から欧米崇拝者として知られ、ロシアを恐れる「恐露症」でもあった伊藤が、三国干渉の二の舞になるのではという不安をぬぐいきれなかったのは無理もない。 小村はこれに対し「今回こそは列強団の仲間入りを果たしますとも。 果たさなければいけません。 私がその日本の地位を確立します」と言い切ったという。

07-08-4

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===== 続く =====

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