剛毅なる魂、外交官・小村寿太郎 (05)

鴻臚館

 小村にはさらなるビジョンがあった。 英国の存在である。 英国がボーア戦争やその他の植民地問題に頭を悩ませ、いずれ兵力を必要としてくるだろうと予見していた彼は、ここで日本の力量を見せておくことが後に功を奏すると読んでいた。 いずれロシアと戦うことを免れないであろう日本にとって、英国を味方につけておくことは他国の干渉を退ける意味で重要であった。 つまり、日露戦争を前提とした上での日英同盟の可能性をすでに見据えていたのであり、小村はこの講和会議でその布石を打つと決めていたのである。

講和会議は難航したものの、小村が取り仕切り、列国が足並みを揃えるに至った。 当時の日本の位置は比べ物にならぬほど低かったが、小村の采配は列強代表も認めざるを得ぬほど見事であった。 日本は列強8ヵ国全兵力の6割近くを出兵し、数多くの犠牲を払ったものの、賠償金はロシアの4分の1、ドイツの3分の1、フランスの2分の一しか要求せず、日本の公正さが欧米諸国に知れ渡ることとなった。 小村の決意どおり、世界列強が日本の兵力、外交術に一目置き始めたのがこの時であった。

07-09-1

  • 義和団の乱は、1900年に起こった、中国朝末期の動乱である。 義和団事件義和団事変北清事変北清事件清国事変などの呼び方もあり、中国では戦争が起こった年の干支から庚子事変(こうしじへん)とも言われるが、「義和団の乱」で統一する。

当初は義和団を称する秘密結社による排外運動であったが、1900年光緒26年)に西太后がこの反乱を支持して清国が6月21日に欧米列国に宣戦布告したため国家間戦争となった。 だが、宣戦布告後2か月も経たないうちに欧米列強国軍は首都北京及び紫禁城を制圧、清朝は莫大な賠償金の支払いを余儀なくされる。 この乱の後、西洋的方法を視野に入れた政治改革の必要を認識した西太后は、かつて自らが失敗させた戊戌の変法を手本としたいわゆる光緒新政を開始した。

中国にキリスト教が伝来したのはかなり古いが、多くの信者を獲得することなく清末にいたった。 しかしこうした事態に変化をもたらしたのが、相次ぐ西欧列強との戦争とその後の不平等条約締結である。 それまで布教活動は条約港に限り認められていたが、アロー号戦争(第二次アヘン戦争)後結ばれた天津条約では、清朝内陸への布教を認める条項が挿入されており、以後多くの外国人宣教師が内地へと入っていった。 この結果、キリスト教は次第に信者を獲得していく。

外国人宣教師たちは、宗教的信念と戦勝国に属しているという傲岸さが入り交じった姿勢で中国社会に臨み、その慣行を無視することが多く、しばしば地域の官僚・郷紳と衝突した。 そしてさらに事態を複雑にしたのは、ライス・クリスチャンの存在である。 飢饉などの天災により寄る辺をなくした民衆などは宣教師の慈善活動に救いを見出し、家族ぐるみ・村ぐるみで帰依することもあった。 また当時中国の内部対立の結果、社会的弱者となった人々も庇護を求めて入信し、クリスチャンの勢力拡大に寄与した。 たとえば南方では、現地人と客家がしばしば対立して土客械闘という争いを起こしていたが、地方官は客家を弾圧することが多く、救いを求めて客家が一斉にキリスト教に入信するようなことがあった。 さらに、義和団の母胎となったと言われてきた白蓮教徒も、官憲の弾圧から逃れるために、その一部がキリスト教に入信していたことも分かってきた。 対立の構図は決して単純なものでは無かったのである。

事件の発生は、列強への反感を次第に募らせていった。 何故なら、布教活動や宣教師のみならず、同じ中国人であるはずの信者も不平等条約によって強固に守られ、時には軍事力による威嚇を用いることさえあったため、おおむね事件は教会側に有利に妥結することが多かったからである。  地方官の裁定に不満な民衆は、教会や神父たち、信者を襲い、暴力的に解決しようとすることが多かった。  太平天国平定の功労者であった曾国藩ですら、もし外国人の方に非があったとしても、公文書に記載し事を大きくしてはならないと述べたという。  民衆の間には外国人は官僚より三等上という認識が広がっていった。

こうした対立に、異文化遭遇の際に起こりがちな迷信・風説の流布が拍車をかけた。 当時、宣教師たちは道路に溢れていた孤児たちを保護し、孤児院に入院させていたが、それは子供の肝臓を摘出し、薬の材料にするためだといった類のものである。 仇教事件の頻発は、一般民衆の中に、西欧及びキリスト教への反感を醸成し、外国人に平身低頭せざるを得ない官僚・郷紳への失望感を拡大させたといえる。

連合軍の最初の正念場は大沽砲台・天津攻略戦であった。 租界を攻撃していた清朝の正規軍、聶士成の武衛前軍や馬玉崑率いる武衛左軍と衝突したが、戦闘は連合軍が清朝側を圧倒した。 結果聶士成を戦死せしめ、数日後の7月14日には天津を占領するに至る。  直隷総督裕禄は敗戦の責を取って自殺した。天津城南門上には、およそ4000名の義和団・清朝兵の遺体があったという。
そして8月4日には、連合軍は北京に向けて進軍を開始したが、各国の足並みが揃わず歩みが遅かった。軍事作戦上の齟齬や各国軍の戦闘への積極性の違いも原因であったが、そもそも北京に早く到達すべきかどうかという根本的な点でも、意見の一致を見ていなかった為である。 イギリスや日本が、北京の公使館を少しでも早く解放すべきと主張する一方で、北京進攻はかえって公使館に対する清朝・義和団の風当たりを強くするという意見もあったのである。 また義和団による清朝の混乱をさらに拡大させることで、一層大きな軍事介入を画策する国まであった。 いずれにしても連合軍の歩みは緩慢であったため、それだけ北京で救援を待つ人々に苦汁を強いることになり、後々批判されることになる。

07-09-2

➥ ➥ ➥ 顔や体格に関する寿太郎の逸話

小村は小柄(ハーバード大学留学時のパスポートには「五」、約156cmで頭が大きく、鼻の下から口の辺りに両端の下がった貧相な髭を生や、顔は「やつれ相」、目はくぼんで頬は落ち、眉は太めで垂れ下がり、すばやい行動力などから、人にある種の小動物を連想させずにはおかず、北京では口さがない外交団から「ねずみ公使」(ラット・ミニスター)と仇名され、同朋からは「小村チュー公」と呼ばれたという。

海軍大臣の西郷従道は小村に「その身体で外国人の中にまじったら、子どものように思われましょう」と言った。 小村は「大丈夫です。私は日本を代表して行くのですから、日本は小さくても強いですからね」と答えたという。  李鴻章と対面した際、巨漢の李に「この宴席で閣下は一番小そうございます。日本人とは皆閣下のように小そうございますか?」と背の低さを揶揄されたのに対して、「残念ながら日本人はみな小そうございます。無論閣下のように大きい者もございます。 しかし我が国では『大男 総身に智恵が回りかね』などといい、大事を託さぬ事になっているのでございます」と切り返したという。

2015-02-22_6

 

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===== 続く =====

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