剛毅なる魂、外交官・小村寿太郎 (07)

07-11-2

朝日輝く日の本と 入り日を知らぬ英国と 東と西に分かれ立ち 同盟契約成るの日は 世界平和の旗揚げと 祝ぐ今日の嬉しさよ

    明治維新以来、近代化を進め、富国強兵を唱えてきた日本が世界中に認日英同盟に国中が歓喜に沸いたと伝えられる。 小村寿太郎の意見書が決定的な要因となってこの同盟が成立したことは言うまでもない。 外務大臣となって4ヵ月、小村は「最大の目的」を計画通りに果たしたのである。

 ➥ ➥ ➥ 日英同盟Anglo-Japanese Alliance)は、イギリスは義和団の乱以来満州から撤兵しないロシアを牽制したいと考えていたが、イギリス単独ではイギリスの中国における利権の維持にあたるには限界があった。 そこで、それまでの「栄光ある孤立」政策を捨て、まずドイツとの交渉を試みるも、ドイツはロシアと手を結んだため失敗し、その後義和団の乱で活躍した日本に接近した。 日本では、伊藤博文井上馨らがロシアとの妥協の道を探っていたが、山縣有朋桂太郎西郷従道松方正義加藤高明らはロシアとの対立はいずれ避けられないと判断してイギリスとの同盟論を唱えた。 結果、日露協商交渉は失敗し、外相小村寿太郎の交渉により日英同盟が締結された。 調印時の日本側代表は林董特命全権公使、イギリス側代表はペティ=フィッツモーリス外務大臣であった。

第一次日英同盟の内容は、締結国が他国(1国)の侵略的行動(対象地域は中国・朝鮮)に対応して交戦に至った場合は、同盟国は中立を守ることで、それ以上の他国の参戦を防止すること、さらに2国以上との交戦となった場合には同盟国は締結国を助けて参戦することを義務づけたものである。 また、秘密交渉では、日本は単独で対露戦争に臨む方針が伝えられ、イギリスは好意的中立を約束した。 条約締結から2年後の1904年には日露戦争が勃発した。 イギリスは表面的には中立を装いつつ、諜報活動やロシア海軍へのサボタージュ等で日本を大いに助けた。

日英同盟

 第二次日英同盟では、イギリスのインドにおける特権と日本の朝鮮に対する支配権を認めあうとともに、国に対する両国の機会均等を定め、さらに締結国が他の国1国以上と交戦した場合は、同盟国はこれを助けて参戦するよう義務付けられた(攻守同盟)。

第三次日英同盟では、アメリカが、交戦相手国の対象外に定められた。 ただしこの条文は自動参戦規定との矛盾を抱えていたため、実質的な効力は期待できなかったが、これは日本、イギリス、ロシアの3国を強く警戒するアメリカの希望によるものであった。 また、日本は第三次日英同盟に基づき、連合国の一員として第一次世界大戦に参戦した。

第一次世界大戦後の1919年パリ講和会議で利害が対立し、とりわけ、国際連盟規約起草における日本の人種的差別撤廃提案が否決されたことは禍根として残り、1921年、国際連盟規約への抵触、日英双方国内での日英同盟更新反対論、日本との利害の対立から日英同盟の廃止を望むアメリカの思惑、日本政府の対米協調路線を背景にワシントン会議が開催され、ここで、日本、イギリス、アメリカ、フランスによる四カ国条約が締結されて同盟の更新は行わないことが決定され、1923年、日英同盟は拡大解消した。

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❢❢❢ 強国ロシアとの戦い ❢❢❢

小村はいまや、ロシアが非道をはたらくのを待っていた。 そうでもしなければ協商派たちを黙らせることができないからである。 それほど長く置かずしてその時は来た。 ロシアは満州還付条約を無視し、満州から撤兵せず、さらに韓国に侵入した。 ロシアが満州だけでなく、隣国である韓国をも支配せんとしていることは明白であった。

1903年6月、本格的に対露外交交渉が始まった。 「朝鮮問題に関してはロシアに日本の優先権を認めさせ、一歩も譲歩しない」、そしてそれが脅かされるのなら「戦いも辞さない」ことが日本の基本方針として提示されたが、それでも伊藤博文は最後の最後まで協商論を諦めていなかった。 伊藤の発言は絶大であったから政府は決断に欠け、軍部は苛立ちを隠せなかった。

「外交よりも内交がむつかしい」という小村の言葉どおり、日英同盟締結から日露開戦直前まで、小村は協商派をいかに抑えるかということに苦心する。 小村をはじめ、対外硬と呼ばれる、軍事力をも視野に入れた強硬外交を唱える人々は、伊藤を必死で説得にかかった。 対外硬の頭山満は万が一、伊藤が最後まで抵抗したら「切る(殺す)つもりだった」と後に語っている。
翌年2月まで交渉が続けられたものの、小村の予想どおり、ロシアは一歩も引かなかった。 不当な要求をつきつけてくるだけのロシアに、伊藤もついに「小村、これではもはや戦うほかないね」と折れたという。

結局、小村は実際にロシアに交渉し決裂してみせることで、ロシアの策略を露呈させ、ロシアが伊藤の求めているような国ではないことを証明するしかなかった。

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※ 第1次桂内閣と日露戦争 : 前の第4次伊藤内閣の崩壊後、当初井上馨大命降下されたが、期待していた渋沢栄一大蔵大臣就任が実現せず、同じく立憲政友会も混乱状態にあったため、井上は組閣辞退を表明した。 元勲世代からの総理大臣擁立は困難と考えた元老によって、新たに推されたのが桂であった。 山縣有朋系官僚を中心とした内閣であり、「二流内閣」と揶揄された。 議会における与党帝国党のみであり、伊藤博文立憲政友会大隈重信憲政本党野党に回った。 伊藤博文の立憲政友会は軍備増強の必要性は認めたものの、桂に行財政改革の徹底を求めた。 だが、親政友会の奥田義人法制局長官による行財政改革案を葬って辞任に追い込んだことが伊藤を含めた政友会の怒りを買って内閣を攻撃し、一時は帝国憲法の停止を検討する程の危機的状況を迎えていた。

桂はこの事態を乗り切るために外交では日英同盟を締結してロシアとの対決姿勢を強め、内政では伊藤博文を枢密院議長に祭り上げて政友会総裁を辞めさせることに成功した。 だが、政友会は代わりに総裁になった西園寺公望の元で党内融和が進んでいくことになった。

第1次桂内閣における最大の事跡は日露戦争である。 桂太郎首相は、戦争中の政局の安定を図るため、立憲政友会との提携を希望して原敬との間で次の政権は政友会総裁の西園寺公望に禅譲するという政権授受の密約を交わす。 政友会の支持を得た第1次桂内閣は日露戦争を乗り切る。 だが、多くの死傷者と度重なる非常特別税などの増税に苦しんだ民衆の不満は日比谷焼討事件となって爆発、また外交面ではポーツマス条約第2次日韓協約日清満州善後条約の締結によって一応の役割を果たした。 このため、明治38年12月に総辞職して、約束通りに西園寺公望に組閣の大命が下ることとなった。 その在任期間は1681日で、1つの内閣としては日本憲政史上最長である。

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===== 続く =====

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