剛毅なる魂、外交官・小村寿太郎 (08)

07-12-1

 ・・・・・・・・ついに日露開戦に至った= 小村は日本の戦争目的は、欧米列強によるアジア侵略の阻止であり、東洋の治安を永遠に維持することと宣言、同時に諸国に対露交渉の経過を伝え、開戦はあくまでロシアの責任であることと、いかにロシアの主張が不当であるかを伝達した。

当時、英国と世界の覇権を争うロシアは、陸軍国としては世界一とうたわれ、国力、軍事力ともに日本をはるかに上回っており、小国日本に勝ち目などなかった。 陸軍兵力は日本20万強に対し、ロシアは200万から400万ともいわれ、ロシアのクロパトキン大将は「日本兵3人にロシア兵1人で間に合う」と豪語したとされる。しかし、戦わなければ、いずれ支配されるのみ、国家生存のために日本は戦うことを選んだのである。

その原点は、幕末の攘夷論や明治初期の征韓論などに求めることも可能であるが、直接的な原因としては、明治政府が条約改正に際して採った欧化政策とそれに対する反発としての国粋主義の高揚が上げられる。いわゆる日本国粋主義が、『日本』を舞台に政府の外交方針と自由民権運動の民力休養路線の双方を批判して、強硬的な外交政策による不平等条約解消とその裏付けとなる軍事力の拡張が根底にあった。

こうした動きは世論を日清開戦論へと動かす契機にはなったが、これらの政党は対外政策では一定の一致をみていたものの、国内政策では国粋主義的な大日本協会や国民協会から自由民権運動の中でも急進派である東洋自由党まで幅広い勢力を含んでいたために、政府あるいは第1党の自由党あるいは後に同党と伊藤博文系官僚勢力が合同した立憲政友会に対する批判でしか一致をみなかった。

しかし、日清戦争後に一時的に沈静化していた対外硬の再燃が始まるのは、義和団の乱後のロシア軍による満州駐留であった。 旧摂関家の当主であった近衛篤麿文麿の父)を擁した対露同志会を始めとして、七博士建白事件における日露開戦論の高まり、戦後のポーツマス条約締結に反対する民衆による日比谷焼討事件など、対外硬派の影響が日本を戦争に誘った。

07-12-4

結果は世界中の驚くこととなった。 海で陸で戦い抜き、日本は奇跡的な勝利を遂げてゆく。

開戦2年前にして同盟国となった英国は、軍事情報の提供や戦費の調達、対ドイツおよびフランスの中立維持を促す外交的圧力など、表面上は中立的な立場を取りながらも多大な貢献を果たした。 とくに日本への同情を高める国際世論を形成させるのにきわめて有効であった。 日本海海戦の勝利に対し、英各紙は次のように報道している。

「トラファルガーの戦勝にもまさるこの一戦―。今やロシアが直面する課題は、いかなる条件で降伏すべきかである」(デイリー・メール紙)

「ロシア政府は日本の要求する条件で一刻も早く和平を締結すべきである」(モーニング・ポスト紙)

「今やロシアにとって、戦争を継続できる望みは全く消えた。 強いて継続すれば、ただ自国にとって不利になるだけである。これが極めて分かりやすい道理であるにもかかわらず、ロシア宮廷において和平への動きがまだ出ていないように見受けられるが、ロシア自身のために、誠に惜しいことである」(ロンドン・タイムズ紙)。
07-12-2

❢❢❢ 日露開戦 ❢❢❢

 開戦 ; 日露戦争の戦闘は、1904年2月8日、旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦奇襲攻撃旅順口攻撃)に始まった。 この攻撃ではロシアの艦艇数隻に損傷を与えたが大きな戦果はなかった。 同日、日本陸軍先遣部隊の第12師団木越旅団が日本海軍の第2艦隊瓜生戦隊の護衛を受けながら朝鮮の仁川に上陸した。 瓜生戦隊は翌2月9日、仁川港外にて同地に派遣されていたロシアの巡洋艦ヴァリャーグと砲艦コレーエツを攻撃し自沈に追い込んだ(仁川沖海戦)。 2月10日には日本政府からロシア政府への宣戦布告がなされた。

ロシア旅順艦隊は増援を頼みとし日本の連合艦隊との正面決戦を避けて旅順港に待機した。 連合艦隊は2月から5月にかけて、旅順港の出入り口に古い船舶を沈めて封鎖しようとしたが、失敗に終わった(旅順港閉塞作戦)。 4月13日、連合艦隊の敷設した機雷が旅順艦隊の戦艦ペトロパヴロフスクを撃沈、旅順艦隊司令長官マカロフ中将を戦死させるという戦果を上げたが、5月15日には逆に日本海軍の戦艦「八島」と「初瀬」がロシアの機雷によって撃沈される。

一方で、ウラジオストクに配備されていたロシアのウラジオストク巡洋艦隊は、積極的に出撃して通商破壊戦を展開する。 これに対し日本海軍は第三艦隊に代わり上村彦之丞中将率いる第二艦隊の大部分を引き抜いてこれに当たらせたが捕捉できず、ウラジオストク艦隊は4月25日に日本軍の輸送艦金州丸を撃沈している。

 旅順要塞攻囲戦・黄海海戦・遼陽会戦 ; 黒木為楨大将率いる日本陸軍の第一軍は朝鮮半島に上陸し、4月30日-5月1日の戦闘で、安東(現・丹東)近郊の鴨緑江岸でロシア軍を破った(鴨緑江会戦)。 続いて奥保鞏大将率いる第二軍が遼東半島の塩大墺に上陸し、5月26日、旅順半島の付け根にある南山のロシア軍陣地を攻略した(南山の戦い)。 南山は旅順要塞のような本格的要塞ではなかったが堅固な陣地で、第二軍は死傷者4,000の損害を受けた。東京の大本営は損害の大きさに驚愕し、桁を一つ間違えたのではないかと疑ったという。

旅順要塞に対して陸軍は3月上旬までは監視で十分であると判断していたが、その後3月14日、北上する2個軍の後方に有力な露軍戦力を残置するのは危険と判断し、2個師団からなる攻城軍を編成することを決定した。 だが海軍側としては陸軍の援助なしの海軍独力による旅順の処理を望んだようで、事前調整の段階から陸軍の後援を要求しない旨をしばしば口外した大本営海軍幕僚もいたと伝えられる。

07-12-3

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===== 続く =====

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