剛毅なる魂、外交官・小村寿太郎 (09)

07-13-4

 ロシアバルト海艦隊(バルチック艦隊)の極東回航がほぼ確定し、追い詰められた海軍は開戦当初から拒み続けてきた陸軍の旅順参戦を認めざるを得なくなった。このような経緯により要塞攻略を主任務とする第三軍の編成は遅れ、戦闘序列は5月29日に発令となった。軍司令部は東京で編成され、司令官には日清戦争で旅順攻略に参加した経歴があった乃木希典大将が命された。

8月7日より海軍陸戦重砲隊が旅順港内の艦船に向け砲撃を開始し、旅順艦隊に損傷を与えた。 これを受けて旅順艦隊は8月10日に旅順からウラジオストクに向けて出撃、待ち構えていた連合艦隊との間で海戦が起こった。この海戦で旅順艦隊が失った艦艇はわずかであったが、今後出撃できないような大きな損害を受けて旅順へ引き返した(黄海海戦コルサコフ海戦)。 ロシアのウラジオストク艦隊は、6月15日に輸送船常陸丸を撃沈するなど(常陸丸事件)活発な通商破壊戦を続けていたが、8月14日に日本海軍第二艦隊に蔚山沖で捕捉された。第二艦隊はウラジオストク艦隊に大損害を与えその後の活動を阻止した(蔚山沖海戦)。 旅順艦隊は出撃をあきらめ作戦能力を失っていたが、日本側ではそれが確認できず第三軍は要塞に対し第一回総攻撃を8月19日に開始した。 だがロシアの近代的要塞の前に死傷者1万5,000という大損害を受け失敗に終わる。

8月末、日本の第一軍、第二軍および野津道貫大将率いる第四軍は、満洲の戦略拠点遼陽へ迫った。 8月24日-9月4日の遼陽会戦では、第二軍が南側から正面攻撃をかけ、第一軍が東側の山地を迂回し背後へ進撃した。 ロシア軍の司令官クロパトキン大将は全軍を撤退させ、日本軍は遼陽を占領したもののロシア軍の撃破には失敗した。 10月9日-10月20日にロシア軍は攻勢に出るが、日本軍の防御の前に失敗する(沙河会戦)。 こののち、両軍は遼陽と奉天(現・瀋陽)の中間付近を流れる沙河の線で対陣に入った。10月15日にはロジェストヴェンスキー中将率いるバルチック艦隊が旅順へ向けてリエパヤ港を出発した。

07-13-1

 旅順攻略 ; 第三軍は旅順への攻撃を続行中であった。 しかしながら港湾への大弧山からの観測射撃を8月~10月まで、黄海海戦を挟んで実施し旅順艦隊の壊滅には成功していた。第三軍は、要塞東北方面の防衛線を突破しその背後にある、旅順要塞で最高峰である「望台」を占領することで要塞の死命を制し、海軍の要望も果たそうとした。

9月19日と10月26日の前後に分けて行われた第二回総攻撃は、突起部を形成している第一回総攻撃で占領した拠点の周辺を安定化させることを目的とし、203高地以外の作戦目標を攻略して目的を達成していたが、中央には失敗と判断された。 この際に第三軍は海鼠山を占領し、旅順港のほぼ全てを観測することができるようになったが、旅順艦隊主力が引き籠っている海域だけが俯瞰できず、このころより海軍は、より旅順港を一望できる203高地の攻略を優先するよう要請をしだす。この海軍の要請に大本営も追認するが、第三軍と、上級司令部である満州軍は東北方面主攻を主張し続け対立。大本営と海軍は天皇の勅許まで取り付けて方針を変更するよう促す。

11月26日からの第三回総攻撃も苦戦に陥るが、途中より乃木の判断で要塞東北方面の攻撃を一時取り止め、203高地攻略に方針を変更する。 戦況を懸念した満州軍総参謀長児玉源太郎大将は、大山巌元帥の了承をもらって旅順方面へ向かっていたが、直前に乃木が攻撃目標を変更したことを受けて、その攻略に尽力した。激戦の末、12月4日に旅順港内を一望できる203高地の占領を達成した。

しかしその後も要塞は落ちず、第三軍は作戦目的である要塞攻略を続行し、翌1905年1月1日にようやく東北方面の防衛線を突破して望台を占領。 これを受けてロシア軍旅順要塞司令官ステッセル中将は降伏を決意。 旅順艦隊は203高地を奪われた時点で、既に艦砲と乗員を陸地に揚げて防衛戦に投入しており、戦力としては無力化していたが、観測射撃を受けるようになった。 しかし日本側の砲弾の品質問題などで殆どの艦は船底を貫通されることはなく、殆どの艦艇は要塞降伏前後に、すぐさま使用できないように全て自沈させられた。

07-13-2

➽ ➽ ➽   奉天会戦 ; 日本軍は、ロシア軍の拠点・奉天へ向けた大作戦を開始する(奉天会戦)。 2月21日に日本軍右翼が攻撃を開始。3月1日から、左翼の第三軍と第二軍が奉天の側面から背後へ向けて前進した。ロシア軍は予備を投入し、第三軍はロシア軍の猛攻の前に崩壊寸前になりつつも前進を続けた。3月9日、ロシア軍の司令官クロパトキン大将は撤退を指示。日本軍は3月10日に奉天を占領したが、またもロシア軍の撃破には失敗した。
この結果を受けて日本側に依頼を受けたアメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトが和平交渉を開始したが、間もなく日本近海に到着するバルチック艦隊に期待していたロシア側はこれを拒否した。一方両陸軍は一連の戦いでともに大きな損害を受け作戦継続が困難となったため、その後は終戦まで四平街付近での対峙が続いた。

➽ ➽ ➽  日本海海戦 ; バルチック艦隊は7ヶ月に及んだ航海の末日本近海に到達、5月27日に連合艦隊と激突した(日本海海戦)。5月29日にまでわたるこの海戦でバルチック艦隊はその艦艇のほとんどを失うのみならず、司令長官が捕虜になるなど壊滅的な打撃を受けた。これに対して連合艦隊は喪失艦がわずかに水雷艇3隻という、近代海戦史上においても例のない一方的な圧勝に終わった。
欧米各国における「ロシア有利」との予想をくつがえすだけでなく、バルチック艦隊が壊滅するという予想もしなかった海戦の結果は列強諸国を驚愕させ、トルコのようにロシアの脅威にさらされた国、ポーランドフィンランドのようにロシアに編入された地域のみならず、白人国家による植民地支配に甘んじていたアジア各地の民衆を熱狂させた。この海戦の結果、日本側の制海権が確定し、頼みの綱のバルチック艦隊を完膚なきまで叩きのめされたロシア側も和平に向けて動き出した。

07-13-3

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===== 続く =====

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