剛毅なる魂、外交官・小村寿太郎 (12)

07-16-1

 ポーツマス条約が結ばれた深夜、ホテルの一室から妙な泣き声が聞こえてくるのを不審に思った警備員がその部屋を訪ねると、小村が大泣きしていたのを発見した。 小村にとってこの条約の調印は、苦渋の決断だったと思われる。 帰国時には怒り狂う右翼団体からさまざまな罵声を浴びせられ、泣き崩れた小村を両脇から伊藤博文山縣有朋が抱えて首相官邸へ連れて行ったという。 また、前記のように日比谷焼討事件や小村邸への投石など暴徒化した国民の影響で、妻のマチは精神的に追い詰められ、小村は家族と別居することを余儀なくされた。

勝利の歓喜に包まれた国民は、万歳三唱でポーツマスへと向かう小村を見送った。しかし、この会議が一筋縄でいかないことを知っていた小村は「帰ってくるときは人気はまるで反対でしょう」と桂首相に告げ、同じく日本代表であった高平小五郎駐米公使も「万歳の代わりに馬鹿野郎で済めばいいところですね」と皮肉を述べたとされる。

交渉内容は、韓国の全権をロシアに認めさせること、ロシアに満州から撤退させること、旅順・大連・東清鉄道支線を割譲させること、賠償金15億円を支払わせることなどであった。 最も意見が割れたのは樺太の割譲と賠償金問題で、ロシアのウィッテ前蔵相は意見の割れるたびに、「そんな条件に服するぐらいなら、また一戦を交える」とまくし立てた。 ここが小村の腕の見せどころであった。 日本はロシアに戦力の限界を絶対に知られてはいけない。 兵力が尽きてしまえばどんなに有能な軍でも敗北をみる。 負ければ今よりひどい条件を飲まされることになる。

小村は「日本にもまだまだ続戦の覚悟はある」ことを主張しつつ、人民の平和、日本の要求の正当性などを説いて決着をつけようとねばった。 しかし、交渉は難航した。あまりにロシアが引かないので、小村はウィッテ前蔵相に「あなたはまるで戦勝国のような要求をつきつけている」と、こぼしたと知られる。
結果、日本は続戦を避けるために妥協を強いられた。 「日本国天皇は文明と人道を尊重し、平和のために妥協の精神を以って、賠償要求を撤回し樺太の分割を承認せられ、会議成立を命ぜられたり」―。 小村は苦し紛れに戦勝国の誇りを見せ付けるべく発表した。 これにアメリカ、英国のメディアは「寛大な戦勝国」と賞賛し、小村にも英米から多くの祝電が寄せられたという。

一方、軍事力が限界に達していることを知らない日本国民は怒りと落胆に包まれた。 条約破棄を叫び、群衆が官邸や新聞社を襲撃するというデモが繰り広げられ、1000人以上の負傷者を出すほどであった。小村には「速やかに処決して罪を上下に謝せよ」との電文も届いた。
帰国の際、新橋駅から馬車に乗ろうとする小村を、桂首相と山本五十六海相が挟んで隠すように歩いたという。桂と山本はこの時、万が一、小村に銃弾が向けられたら共に倒れる覚悟でいたとされる。

07-16-2

❢❢❢ 国家に尽くして ❢❢❢

外相として最も不本意な結果となったポーツマス条約だが、最大の成果は朝鮮問題が解決に向かったことであった。 日韓保護条約が成立、伊藤博文は韓国統監府初代統監として赴任、保護政治が始まった。 しかし、伊藤は韓国国民の恨みを買い、辞職後の1909年、枢密院議長として満洲を訪れた際、ハルビンにて朝鮮の民族運動家、安重根に暗殺されてしまう。 この機を逃さず、小村は桂とともに韓国併合に着手。この功績を以って侯爵を授けられた。

こうして朝鮮問題は一旦決着をみせたものの、外交上の課題は肥大化していた。アメリカ合衆国が台頭してきたからである。アメリカは満州へと繰り返し干渉し、人種差別に基づく在米日本人排斥運動も激化していた。日露戦争後、列強は日本の脅威を認め始めたが、最もその存在を疎ましく感じていたのがアメリカであった。小村はアメリカの満鉄買収工作や中立化工作に毅然とした態度で臨み、これを退けている。

しかし、日露戦争以降、激務を強いられた小村の健康状態は不調をきわめた。 外相を辞職し、葉山で療養しながらも「長い間の懸案を片付けなければならない」と将来を案じて語っていたという。
懸案とは、これまでの日本外交を記録に残し、また今後困難を極めるであろう日米関係をいかにすべきかという論旨をまとめることであったという。
その願いもむなしく、小村は二度と病床から這い上がることはできなかった。 再度首相になる決意をし、外交は小村に託すと誓っていた桂太郎は、その病床で嗚咽したとされる。

1911年11月26日未明、親友や恩師たちに囲まれて、小村は息を引き取った。57年の短く激動に満ちた一生であった。 料理人兼執事として小村に14年間仕えた宇野弥太郎は、小村を以下のように描写している。
「世間の噂などは全然頭に響きませんでした。新聞や雑誌がどんなに侯爵をほめましょうが、またどんなにそしりましょうが、てんで平気なもので、従来どおり国事にばかり苦心せられておりました。もしほめてもほめ甲斐なく、そしってもそしり甲斐のない人物が真の英雄でありますならば侯爵はすなわちその人であろうと思います」
「侯爵の清廉と淡白と無欲とは有名なものであります。察しまするに、侯爵は華族になられたいような人ではなく、侯爵の真意はただ国家に尽くして死にたいというのであったのです」
宇野が金銭に困っているときは「黙って持ってゆけ」と貸し出し、返そうとしても決して受け取ることはなかったという。

常に先を見越していた小村は、第一次世界大戦へと向かう世界の情勢、日本の行く末を憂いていたに違いない。 日本の辿るべき運命を誰よりも早く察知し、弱小で蔑視の対象であった日本という小国を、列強を脅かすほどに世界の舞台へと引き上げたのが小村であった。 明治の戦乱期において軍人、政治家と数々の英雄たちが輩出されたが、その栄光は小村の外交なしに実現しえなかったといっても過言ではない。

07-16-3

小村寿太郎のエピソード

·    閔妃暗殺事件の事後処理で非常に難しい役回りを任された外務大臣・小村寿太郎に勝海舟がこう言葉をかけた。「生死を度外視する決心が固まれば、目前の勢いをとらえることができる。難局に必要なことは、この決心だけだ。〜内閣からもつまはじにされ、国民からも恨まれるかもしれない。朝鮮人やロシア人から憎まれるかもしれないが、よい子になろうなどと思うと、間違いが起こる。天下みな、お前さんの敵になっても、氷川の爺さん(勝海舟)は、お前さんの味方だと思っていなさいよ。」

·   交渉決裂の危険もあった日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)の調印になんとか成功した小村寿太郎だが、国民は賠償金が取れなかったことに不満。マスコミも「講和会議は主客転倒」「桂太郎内閣に国民や軍隊は売られた」「小村許し難し」と報道し、この交渉を酷評するなどしたため、戦勝気分から一転して日本国内は不穏な空気に包まれた。 そんな雰囲気のなか帰国した小村寿太郎を新橋駅で迎えた内閣総理大臣・桂太郎と海相・山本権兵衛は、小村の両脇を挟むように歩き出したという。これは、もし爆弾等を投げつけられたときに、小村だけではなく共に死ぬ覚悟を固めていたからである。

小村寿太郎の名言

·   うその外交は骨がおれるし、いつかはばれるが、つねに誠をもって押し通せば、たいした知恵もつかわずに済む。
·   ことの善悪は、その人の決心一つで決まる。

·   もし私に誇るべきものがあるとしたら、それはただ「誠」という言葉に集約されるであろう。 つまるところ、学問や同胞との付き合いでも、また将来のことを考える場合でも、この「誠」の心を忘れずに 貫く覚悟でいるのだ。

07-16-4

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