剛毅なる魂、外交官・小村寿太郎 (13)

07-14-2

❢❢❢ 日露戦争後の小村寿太郎の講和交渉 ❢❢❢ 

「満州をとり、朝鮮を手に入れ、チベット、ペルシャを併合しようとした」十九世紀末葉の帝政ロシヤに、ガンと一撃を加えたのは、新興国日本であった。 時は明治三十八年。 かくして、北米ポーツマスにおいて、ツアリーロシア帝国代表ウイッテと小国・新生大日本帝国代表小村寿太郎の舌端火を吐く講和談判が一撃となった。 前節まで、外交官・小村寿太郎の経歴を披瀝して来た。

筆を置く前に、今一度世界史でも驚嘆をもって評価されるポーツマスの日露講和条約”にスポットをあて、講和成立の詳細を記載しておこう。 講和への話お会いは一握りの土、一ルーブルの償金を払うことも”真ッ平”とふんぞりかえるウイッテに、髭の「ねずみ公使」・小村寿太郎は如何なる術策を用いたか。

ポーツマス条約が結ばれた深夜、ホテルの一室から妙な泣き声が聞こえてくるのを不審に思った警備員がその部屋を訪ねると、小村が大泣きしていたのを発見した。 小村にとってこの条約の調印は、苦渋の決断だったと思われる。 また、帰国時には怒り狂う右翼団体からさまざまな罵声を浴びせられ、泣き崩れた小村を両脇から伊藤博文山縣有朋が抱えて首相官邸へ連れて行ったという。 また、日比谷焼討事件や小村邸への投石など暴徒化した国民の影響で、妻のマチは精神的に追い詰められ、家族と別居することを余儀なくされた小村寿太郎。

仕事は後世の人間が判断することであるとして、一切日記を付けなかった寿太郎。 ロシア駐在時、暗い室内で膨大な数の書物を読み込み続けたため、医者からは「これ以上目を使い続けると失明する」と忠告されたが、学習意欲は衰えず、書物を読むことを止めなかった寿太郎。 小村は40歳を過ぎても公私共に報われず、内職の翻訳を行なったりしていた寿太郎。

彼のスケッチを書き綴ってきたが、以下は評論家・猪俣敬太郎氏が《日本週報No322 昭和30年7月5日》に発表された文を転記させていただく・・・・・・・

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➥ ➥ ➥ 講和への瀬踏み

明治三十八年七月九日午後一時五十分、全権委員小村寿太郎はその随員とともに、各宮家の御名代、伊藤枢密院議長、山県参謀総長、桂首相以下、官、民の盛んなバンザイの声に送られて新橋駅を出発した。 この日、新橋駅付近は朝から各町ごとに国旗を掲げ、各団体はおのおの団体旗を先頭に、楽隊をつけて駅前広場に雲集し、「光景すこぶる盛況をきわめたり」と当時の新聞は報じている。

 やがて一行は横浜市の打ち上げる五十発の花火の轟くなかをアメリカ船ミネソタ号に乗りこみ、午後四時抜錨。
このとき、在港の警備艦は礼砲十九発を発し、また横須賀鎮守府は水雷艇第二十号および軍楽隊を乗せた汽船大和丸を派遣して、ミネソタ号を東京湾の出口まで見送らせた。 日露戦争が二年目に入る明治三十八年は、待ちに待った旅順開城の吉報とともに元旦を迎えた。

 日清戦争当時の伊藤首相-陸奥外相に劣らぬ名コアンビといわれた首相桂太郎と外相小村寿太郎は、すでに三十七年八月、遼陽会戦の前に、閣議で講和条件を研究してその基本方針を決定し、機会を伺っていた。 旅順陥落の前にも、駐英公使林董(ただす)をして、折からベルリンを訪れたウイッテに講和の打診をしたこともある。

 ウイッテの方でも、これこそ「絶好の機会」だとして乗り気になったが、ニコライ二世が許さないために実現しなかった。

Nicholas_II

➥ ➥ ➥ 講和を要求した陸軍

当時、奉天会戦で敵に死傷十数万という大打撃をあたえはしたものの、我もまた殆ど全力を使い尽してしまった陸軍が、最も強く講和を要求していた。 すなわち同会戦の直後、満州軍総司令官大山巌は、山県参謀総長に対し、「敵に殆どふたたび立つあたわざる損害をあたえたる今日において、今後の戦略を政策と一致せんと欲する」
との意見を提出して、早く政策-講和を急げと希望し、山県もまた桂首相に長文の意見書を送って、軍の苦衷を披露した。
すなわち、 「座して守勢を取るも、進んで攻勢を取るも、いずれにしても前途悠遠にして、容易に平和を回復しうる望みなく、しかして我はすでに大いに考慮を費さざるべからざるものあり。

第一に、敵はその本国になお強大なる兵力を有するに反し、我は既にあらんかぎりの兵力を用い尽しておるなり。
第二に、敵はいまだ将校に欠乏を告げざるに反し、我は開戦以来すでに多数の将校を欠損し、今後、容為にこれを補充しあたわざるなり」

といい、万一違算があれば、これまでの戦勝を半ば水泡に帰せしめる恐れがあると警告して、講和を急がせた。

軍部から矢の催促をされるまでもなく、桂も小村も気が気ではないのだが、かんじんの相手は、世界最大の陸軍国たる面子があるのと、バルチック艦隊の遠征に望みを託して、同盟国フランスの講和の勧めにも頑として応じようとはしなかった。

バルチック艦隊

➥ ➥ ➥ 貧乏クジの小村

しかし、日本海海戦は局面を一変させた。 かねて機会を伺っていた桂と小村は、すかさず駐米公使高平小五郎に命して、大統領テオドル・ルーズベルト(日米戦争時のフランクリン・ルーヅベルトの叔父)に斡旋を求めしめた。  ルーズベルトもこれに応して、六月九日、日露両国に正式に講和を提議し、仲介斡旋の労を取るむねを申し入れ、両国ともこれを受諾した。

桂は最初、全権委員として伊藤博文と小村を推したが、伊藤は受諾しなかった。 このとき谷干城(竜馬と同時代の土佐の志士→軍人→政治家)は伊藤に手紙をやり、 「このたびの談判は、誰が任じても妙案なし、桂・小村にて沢山なり、いたずらに馬鹿者の恨みを買うは愚の至りなり」といって、引き受けるなと忠告している。 結局、特命全権委員は外相小村と駐米公使高平が任命された。

小村はルーズベルトの母校であるハーバード大学の卒業生であり、短い間ではあったが、駐露公使としてペテルスブルグに駐在したこともあり、万事好都合であったが、しかしなによりも自分の始めた戦争を収拾する責任があり、谷干城のいう通り、馬鹿者の恨みを買う貧乏クジをあえて引いたのである。

ポーツマスの講和談判は、連戦連勝の日本側から働きかけたものであり、しかも戦力の限界に達した軍部が、もっとも強くその成立を望んでいた事実を忘れてはならない。 しかし戦勝に意気揚がる国民は、そういう政府や軍部の苦衷を知らされていないから、講和談判に寄せる期待が大きかったのはむしろ当然である。

たとえば日露開戦前、ロシヤの勢力を満州、韓国から一掃せよと叫んで、対外強硬の世論を指導した例の七博士らは、講和条件の「最小限度」として、満、韓からロシヤ勢力を一掃することはもちろん、三十三億円の償金、樺太全島、カムチャッカ、沿海州全部の割譲を決議しており、これが世論の大勢であった。

動画 ; 小村寿太郎「決裂も辞さず 日露講和会議の小村寿太郎」

https://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=WpHcZ-em6CI

 

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===== 続く =====

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