剛毅なる魂、外交官・小村寿太郎 (15)

07-05-2

➥ ➥ ➥ 償金と樺太割譲

樺太の割譲については、小村もウイッテも自国との歴史的な関連から説き起してともに譲らない。 ウイッテは、
「日本国民はサハリンを得ざることを憤慨するというが、日本国民の憤慨は欲しいものを得ることができない憤慨である。 しかし、ロシヤがこれを失ったならば、ロシヤ国民は自分のものを奪われた憤慨となる。 憤慨の程度はどちらが大きいか、いうまでもない。 現在、日本がサハリンを占領しているのは、単なる武力の結果で、正当の権利の行為ではない。 ロシヤは日本をはじめ、全世界の公認する正当の条約(明治八年の樺太・千島交換条約)により、充分の権利をもって領有し、すでに三十年以上ロシヤの領土たるサハリンを割腹するなど露国の威厳が許さない」ともいっているが、これは五十年後の日ソ交渉=昭和30年の交渉=において、今度は日本側がいうべきセリフとなっている。

   償金もまた難問題であった。 日本は戦争の実費を払い戻せと要求するのだが、その金額などは双方の合意をもって定めることとしてある。 これに対してウイッテは、軍費払い戻しなどということは、征服された国だけが応ずることである。 日本軍がモスクワを陥落し、ペテルスブルグを占領したならお払いしようと、うそぶいた。

講和状況

➥ ➥ ➥ 御前会議で一決

かくしてロシヤ側が、一ルーブルの償金も一握りの領土も、譲る気配がないとみた小村は、もはやこれまでと決意し、二十七日、政府に、 「本官らは談判を断絶して、ただちに当地を引上げ、ニューヨークにおもむき、局面の発展をみんとす」と電報を発し、荷物をまとめて東京からの返電を待つばかりとし、講和会談は決裂の瀬戸際に立つに至った。

かねて会議の行き詰りを憂慮していたルーズベルトは、駐露大使マイヤーに命じて直接ニコライ二世を口説かせ、再三勧告した結果、さしもに頑強だった皇帝をして 「樺太を二分して、従前の日本領だった南半を割くだけなら講和に同意してもよい」と納得させた。

一方、日本に対しても、ニューヨーク滞在中の非公式の特派使節金子堅太郎を通して、十二億円の償金を思いとどまるよう説得していた。

小村全権から談判打切り要請の強硬電報をうけた政府は、二十八日、内閣と元老の御前会談を開いたが、たまたま外務省の石井通商局長が某国の外交官を訪ねたとき、ロシヤ皇帝がアメリカ大使マイヤーに向って、樺太の南半ぐらいなら譲ってもいいという意向をもらしたむねを耳にし、これを桂に伝えた。

かくて一時は樺太を断念しても、講和をまとめようと覚悟した政府は、朝議を一決し、「軍事および経済上の事情を熟慮し………、最後の譲歩として、ロシヤにおいて帝国の樺太占領の既成事実を確認する条件をもって、軍費償還に関するわが要求を全然揃回すべし」と訓電した。

二十九日、小村は軍費償還の要求を撤回し、樺太占領の既成事実を確認するよう主張したが、ウイッテは同意しない。 そこでまたまた譲歩して、無償をもって樺太北半をロシヤに還付することとして、ようやく講和は成立した。

これをロイター電報は、「日本は屈従して一切の未定問題につきロシヤの提案を承諾した」と報じた。

九月五日、小村とウイッテは議定書に調印した。 ときに午後三時四十七分。 ポーツマス軍港には祝砲が鳴りひびき、各教会は鐘を打ち鳴らして平和の恢復を祝福し、謝恩の祈祷が捧げられた。

07-14-4

➥ ➥ ➥ 悲壮な小村の帰還

かくしてウイッテは朝野の歓呼の声に迎えられて帰国し、伯爵を授けられ、やがて首相となった。 これに反し、小村の場合は悲壮であった。 会議が終ってから病気になった彼は、遅れて十月十五日に横浜に着いた。  「彼の身辺を警戒する巡査と憲兵のほかは、出迎え人も寂寥、この日、横浜市内で国旗を掲げた家はただ弁天橋外の一旗亭ありしのみ」と新聞は伝えた。

ポーツマス講和条約は、ロシヤ側として無上の成功であったことは事実としても、日本もまた、宣戦の詔勅に示された「帝国の重きを韓国の保全におくや、一日の故に為らず、これ両国累世の関係に因るのみならず、韓国の存亡は実に帝国安危のかかるところなればなり」という最大の開戦目的たる、韓国の宗主権をはじめ、絶対的必要条件はすべて満たしている。

ただ政府や全権の外交技術の拙劣はなんとしても否定しえないが、外交と軍事が機宜を失しなかったのは、よく剣を使うもの、よく剣を収むることを知ると評すべきである。

追記; その後にアメリカの鉄道王・ハリマン満洲における鉄道の共同経営を提案(桂・ハリマン協定)したのを首相や元老の反対を押し切って拒否した件については評価が分かれる。日露講和条約締結の功により伯爵に陞爵する。

1908年(明治41年)成立の第2次桂内閣の外務大臣に再任する。幕末以来の不平等条約を解消するための条約改正の交渉を行う。1911年(明治44年)に日米通商航海条約を調印し関税自主権の回復を果たした。日露協約の締結や韓国併合にも関わり、一貫して日本の大陸政策を進めた。韓国併合の功により侯爵に陞爵する。

同年の桂内閣総辞職に伴い政界を引退するも、同年11月26日、結核療養のために滞在していた葉山町の別荘にて死去した。

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動画; https://youtu.be/lQwzDry-kIs

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===== 続く =====

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