日本地震学の父/ジョン・ミルン=02=

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❢❢❢ 貪欲に火山を調査 ❢❢❢

今から129前の明治9年(1876年)、東京大学工学部の前身である工部省工学寮(後に工部大学校)教師に招かれて来日した26歳の若者ジョン・ミルン。 彼はロンドンからイルクーツクを経てモンゴルを横断し,北京,上海から東京まで,汽車,船,馬車,駱駝による7ヶ月の大旅行を行ない、日本にやってきた。 ミルンにとって工部大学校の環境は幸運だった。 学長が同じくスコットランド人でグラスゴー大学出の技師ヘンリー・ダイアーだったこと、そして同僚の中には英国で既に顔なじみであったジョン・ペリー教授がいたからだ。 ペリーとミルンは研究者仲間として、生涯の友人として、長くつきあうことになる。 外国人教員達のスケジュールはびっしり詰まっていたが、20代後半という若いミルン教授は、活力に満ち高い評判を築いていった。

豊富な知識と内容の濃い授業で学生を魅了し、研究活動にも余念がなく、教材が不十分だと自ら教科書を作った。 特に結晶学の教科書は非常に専門性の高いもので、後に英国で書籍として出版されている。 また、持ち前の好奇心旺盛な性格は、教授の椅子にじっと座っていることを許さず、時間の許す限り実地調査に出掛け、日本社会の歴史、そして火山と地震についての知識を深めていった。

1876年に伊豆大島の三原山が噴火した時にミルンは、「こんな貴重な研究材料を逃すまい」と現地へと急いだ。自らの身の危険を心配するよりも研究を優先するのがミルンだった。
噴火が収まって間もない噴火口に近づいた時ミルンが言ったという。 「噴火口は見上げるものだと思っていたが、今の私は何と、見下ろしている」と。 直径1キロ、高さ100mという岩石の円形競技場のような噴火口を、ミルンは注意深く調べて回った。 この伊豆大島の地質調査により、ミルンは火山の生成過程に関する知識を深めた。 同時にこのような噴火が地震の原因となるのではないだろうかという仮説を立てた。

この後もミルンは浅間山、千島列島、富士山を含め、日本中の50の火山に登って観測を実施した。 総合的な研究の結果、ミルンは、火山活動は地震の原因では無いという結論に達している。 ミルン自身の説明によると「我々の体験する地震のほとんどは火山から発するものでも無ければ、直接つながりがあるものでも無さそうである。 日本の中央は山岳地帯で火山が多い地域があるが、そこは全く地震の無い地域でもある」。このように大学での休暇を利用した「小探検旅行」をミルンは満喫しながら着実に研究成果を挙げていった。

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  • ヘンリー・ダイアーHenry Dyer);1873年から1882年まで工部省工学寮(1877年工部大学校に改称、東京大学工学部の前身)の初代都検(教頭。実質的な校長)を務めた。電話機フットボールをはじめて日本に持ち込んだ人物としても知られる。帰国後も、日本を「東洋の英国」と位置づけるなど、近代期の日英関係に貢献した。 彼は、日本人の特筆についてこう述べている。

 =これまでさんざん言い古されてきた、『日本人は非常にモノマネが巧みだが、独創性もなければ偉大なことを成し遂げる忍耐力もない』といった見方は、余りにも時代遅れというものである。(ヘンリー・ダイアー著『大日本』より)=

当時、ヨーロッパにおけるエンジニアリングの地位は、サイエンスに対して低く見られていた。ダイアーは、日本における工学教育の確立にあたり、「工学は『もの』を対象にして、それを扱う学問である。」とし、エンジニアリングを学問として確立することを目指した。また、理論より実践を重視した教育を目指し、学生に工場や土木現場で働くことを課した。また、全人的な教育を目指し、知識だけでなく、身体、精神の鍛錬を重んじた。当時、工部大学校には士族が多く学んだが、この教育により「サムライ」としての立場にとらわれず、「エンジニア」としての精神を身につけていったとされる。このことは、近代日本における工学の地位を高めるとともに、独立国家として発展する原動力となった。

ダイアーの教育思想を育んだ背景は、大英帝国の発展を支えた「機械の都」スコットランドグラスゴーに根づく「エンジニアの思想」であったと考えられる。「エンジニアの思想」とは、ヴィクトリア期スコットランド人技師によって生み出されたもので、「エンジニアとは、社会進化の旗手であり、生涯、研究・創作していく専門職である」という考え方である。
ダイアーが初代都検として来日する機縁のひとつには、アンダーソンカレッジにおいて山尾庸三とともに学んだことが挙げられる。山尾庸三は、伊藤博文井上馨井上勝遠藤謹助らとともに幕末期に英国に密航した「長州五人組」のひとりであり、工部省の工部大輔、工部卿を歴任している。また、ダイアーは、このアンダーソンカレッジの後身であるストラスクライド大学の設立にも尽力した。
また、工部大学校で、教鞭をとるうちに、彼は日本の学生たちの特筆に気が付く。彼の講演記録に、こう記している。

= 日本の学生は、何でも本から学ぼうとし、それよりもはるかに大切な観察と経験を疎かにする傾向がある。・・・工学に携わる人は、どんなに立派な理論を知っていても、知識だけの人にはなってはいけないし、また、どんなに器用でも、無知であってはならない。(明治 第二集 模倣と独創~外国人が見た日本~ 2005.4.16 番組内の説明より抜粋)=

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ジョン・ミルンの足跡;

  • 明治10年(1877年)、函館で研究調査しアジア協会誌に「渡島の火山を訪れて」と題した報告論文を発表する。 浅間山に登り、活火山が珍しかった英国で報告した。
  • 明治11年(1878年)、モースブラキストンらと共に函館の貝塚を発掘する。 根室市の弁天島で貝塚を発見する。 縄文時代大森貝塚の絶対年代を2640年前と推定した。
  • 明治13年(1880年)、日本地震学会を創設する(明治25年に解散する)。 

※ モースと小シーボルト ; 大森貝塚の発掘には、モースの他に、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの次男であるハインリッヒ・フォン・シーボルトが関わっている。 ハインリッヒは、考古学に精通していたが、学者ではなく外交官(通訳官)であった。

ハインリッヒは、大森貝塚の発見を彼の師であるコペンハーゲン国立博物館館長J.A.ウォルソーに報告(1878年(明治11年)7月20日)しており、この報告によればハインリッヒの大森貝塚発掘は、その前年の1877年秋、モースの発掘の前に行われた可能性がある。
モースとハインリッヒは、第一発見者の功を争っており、少なくともモースは後に『日本その日その日』として翻訳された、モース自身の日本滞在の回想記『Japan Day By Day』において、「発掘調査開始にあたって誰かに先を越されることが心配だった」と述べている。

モースは1877年(明治10年)9月16日に1回目の調査を行うと、『ネイチャー』1877年11月19日号に、同年9月21日付として自身の大森貝塚発見の記事を投稿した。  また、10月には東京大学東京府に対して発掘調査の独占許可を要請し、この許可を得た。
一方でハインリッヒも1878年1月31日号に自身が大森貝塚を発見したとの記事を寄せ、モースを激怒させた。 最終的には、モースが大森貝塚の報告書を1879年に出版したこと、ハインリッヒの本業である外交官業務が多忙を極め考古学研究から遠ざかったことが決定打となり、ハインリッヒの日本における考古学研究活動は終わっている。

ハインリッヒに対しての研究は1996年(平成8年)に行われたシーボルト父子展、ハインリッヒの没後100年の2008年(平成20年)に行われた各所での記念展において扱われた程度である。 老練な研究者モースにハインリッヒが挑んだこの研究論争によって、日本の考古学が飛躍的に発展を遂げた。ちなみに、日本において考古学という言葉を使い始めたのはこのハインリッヒが出版した「考古説略」が始めであることは余り知られていない。

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===== 続く =====

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