日本地震学の父/ジョン・ミルン=05=

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❢❢❢ 不慮の事故により帰国する ❢❢❢

1895年2月、不運な出来事がミルン家を襲った。 自宅と観測所が原因不明の火事で焼け落ち、地震計や文献を含むそれまでの研究成果全てを失ってしまった。 火事は大きな打撃となり、これが潮時だと感じたミルンは、大学を辞め英国に戻ることを決意した。 大学側も辞表願を受け入れた。 同年6月、帰国直前にミルンは明治天皇から招待を受け謁見している。

7月にミルンはトネと共に渡英、気候が比較的穏やかで暮らし易いワイト島に住むことを選んだ。 英国高等科学研究所(British Association of Advanced Science)の認可を得て、シャイドShideという町でシャイド・ヒル・ハウスを地震観測所として研究を続けることになった。

※ ワイト島(ワイトとう、the Isle of Wight)はイギリスイングランドの島であり、島全体で1をなす。本土(グレートブリテン島)から狭い海峡を挟んだ南方に位置し、対岸はハンプシャー州。
ワイト島はほぼ菱形をしていて、面積は147平方マイル(381平方km)である。 主に島の西側に当たる島の約半分は、ワイト島特定自然保護区に指定されている。 度々「イングランドの縮小版」として引き合いに出されるほどに島の景観は変化に富んでいる。 西部地区は田園地帯が中心で、恐らく風景画として島では最適な場所であり、島の全域をニードルズまで走る有名な白亜質の草丘分水嶺が聳える急峻な海岸線がある。 島の最高地点は、イギリスでマリリンと呼ばれる種類の山でもあるセントボニフェースダウン(241m/791ft)である。

残りの場所も変化に富んでいて、緩やかな崖と岩棚のある恐らく野生生物にはとにかく重要な一番有名な生息地があり、国際的な保護区域である。ヤー川が島の東端のベンブリッジ港を形成する北東に緩やかに流れる一方で、メディナ川が北のソレント海峡に流れ込んでいる。紛らわしいことに西に流れる川もヤー川と呼んでいて、フレッシュウォーター湾からヤーマスの比較的広い河口までの短い距離を流れている。それぞれを区別する必要があるときは、川の名前に「東」や「西」を付けている。島の南部は、イギリス海峡に面している。

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ヘンリー8は海軍を発展させ、時に修道院を解体した物を建造物にしてヤーマス、東西カウ、サンダウンで島の防衛にあたれるようにポーツマスを母港とした。 当時島の司令官だったリチャード・ワーズレー卿は、1545年のフランスの攻撃を凌ぐことができた。 その後、1588年無敵艦隊を撃破しても、スペインの脅威は残っていて、1597年から1602年にかけてカリスブルック城の外塁が建造された。 内戦の時代、チャールズ1世はワイト島に逃げたが、ロバート・ハモンド知事が同情してくれるものと思っていた。 しかし、ハモンドは驚いて、王をカリスブルック城に監禁した。

ヴィクトリア女王は長年ワイト島のオズボーン・ハウスで夏の休暇を過ごした。その結果、ワイト島はヨーロッパ王室の主要なリゾート地となった。 女王の時代の1897年マルコーニによって世界初の無線局が島の西端にあるニードルズ砲台に開設された。
1904年、未知の病気で島の蜜蜂が死に始め、1907年までに蜜蜂の群れはほとんど一掃されてしまうと、本土に飛び火し、ブリテン諸島で蔓延して行った。 ワイト島病と呼ばれたこの奇病は、1921年になってアカリンダニが媒介する病気と判明した。 この病気は蜂が多くの場合受粉に重要な役割を果たすことから多くの国に衝撃を与えた。 蜜蜂の輸入を禁じる法律が可決されたが、形の上だけの効果しかなかったと言う。

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  • ワイト島を訪ねて=“ジョン・ミルン没後100年”東北大学・名誉柴田明徳 教授

ジョン・ミルンのパイオニアとしての優れた業績、情熱と冒険に溢れた人生にはどんな背景があるのだろうか、私はかねがね知りたいと思っていた。 2010年にトルコのドガンベイにあるメテ・ソーゼン教授の別荘を夫婦で訪れた後、思い切ってミルンが後半生を過ごしたワイト島へ行ってみることにした。

ワイト島は面積384km2人口14万人で、英仏海峡に面した自然の美しい島である。 淡路島に比べて面積は2/3、人口はほぼ同じである。 ヴィクトリア女王は気候の良いこの島の別荘オズボーンハウスを大変好んで度々訪れ、1901年にそこで亡くなっている。 ロンドンのウォータールー駅からポーツマスまで電車で行き、フェリー20分でワイト島のライド埠頭に着く。 そこから昔のロンドン地下鉄で使われた背の低い旧型電車で中心地のニューポートへ向かい、予約しておいたベッド&ブレックファストの宿に泊まった。

翌日、中世からの城の中にあるカリスブルック城博物館を訪ねた。 ここはピューリタン革命の後、チャールズ1世が1649年に処刑されるまで幽閉された場所として知られ、様々な歴史資料が陳列されている。 お願いしておいた学芸員のビショップ氏にミルン関係の展示と資料を案内して頂いたが、その豊富さに一驚した。 ミルンの様々な研究業績と日本及び英国での生涯の足跡が写真パネルで示され、 天皇からの勲三等旭日章を含む様々な勲章もそこにあった。 博物館の階段下には、実際に常時動いている小型の地震計が設置され、ミルンがこの型の地震計を開発したこと、ここワイト島で初の世界地震観測を行ったことなどが説明文に記されていた。

そこで、誠に幸いなことに、ミルン伝の著者の一人、パトリック・ノット先生にお目にかかることが出来た。 ビショップ氏が予めお願いして下さっていたのである。 ノット先生は大変お元気で、自分の車を運転され、この後ミルンの色々な資料が収集されている近くの資料局の建物へ案内して頂いた。 絵が上手だったミルンのアイスランド探検の時の水彩画、大森房吉の英文論文、それに中学校時代のミルンの通信簿まで、沢山の貴重な資料が未整理のまま保存されていた。

ミルンはニューポートの郊外シャイドに家を構え、そこに最初の世界地震観測所を設けた。 その広い敷地も今はいくつかの住宅に変っているが、わずかに昔のミルンの建物の柱と塀の一部が残っている。 ノット先生が頼んで下さって、現在住んでおられる方の室内を拝見すると、“EARTHQUAKE OBSERVATORY 1900 M.H.GRAY J.MILNE.”と 記した記念のボードがあった。 ミルンはゴルフが大好きだった。 自宅から坂道を少し登った所にあるニューポートゴルフクラブも訪れた。 1896年創立の小さいが楽しいコースである。 伝記によれば、彼はうまいというよりも熱心だった。 クラブにはミルンを記念して彼の死の翌年1914年に始まったミルンカップの優勝者リストの長いボードがあり、展示のミルンカップには前年の優勝者の名前も刻まれていた。

ノット先生の運転でワイト島の美しい景色を堪能しながら港に戻り、お別れした。 ノット先生とビショップ氏のご好意により、ミルンが暮したこの町の空気と歴史にじかに触れることが出来た旅であった。 ワイト島の多くの人々がジョン・ミルンを大切に思い、“忘れられた郷土の偉人”として、彼の業績を語り継いでゆこうとする心を強く感じた。

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===== 続く =====

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