日本地震学の父/ジョン・ミルン=06=

07-25-1

❢❢❢ ワイト島から世界へ観測に明け暮れる日々 ❢❢❢

ミルンはトネと共に帰国した。 気候が比較的穏やかで暮らし易いワイト島に住むことを選んだ。 ワイト島は、病弱な妻・トネを快活にした。 また、英国高等科学研究所(British Association of Advanced Science)の認可を得て、シャイドShideという町でシャイド・ヒル・ハウスを地震観測所として研究を続けることになった。

ミルン水平振子地震計をシャイド・ヒル・ハウスと3キロ程離れたカリスブルック城の2ヵ所に設置し、日本から連れて来た助手の広田忍と協力し合い、連日記録をとった。 とはいうものの、シャイド1ヵ所で世界中の地震を同時に観測することには限界があった。 ミルンは以前から考えていた地球規模の地震観測網の必要性を痛感していた。 少なくとも20の観測所を世界各地に設置し、相互に協力体制を敷き、共同で研究活動を行うのだ。 この大掛かりな構想は、ミルン個人の力では到底実現不可能だった。 ミルンは王立協会を説得した。 観測所はまず英国に7つ、ロシアに3つ、カナダに2つ、アメリカ合衆国東海岸に3つ建設された。

ここにミルンの政治力を見ることができる。 ミルンは19年間という長い期間、日本政府に雇われ、日本の高等教育機関で教育と研究に従事し、日本人の配偶者を得て日本社会に深く関わった人物。 英国政府が日本の内情聴取にミルンを利用しなかった方が不思議だ。 日本は日清戦争(1894~95)を経て、そして日英同盟(1902~03)や日露戦争(1904~05)を控えていたのだから、英国政府にとっては情報=この期間の国際情勢は前章《小村寿太郎の苦悩》に記載、参照=の欲しい国だった。

ミルンはおそらく、この際に築かれた政府とのコネクションを利用して、世界規模の地震観測網の実現をアピールしたのではないか。 ミルンの頭の中の世界時図には「太陽の沈まない、大英帝国」の友好国が当初から浮かんでいたに違いない。 友好国に地震計を設置できれば、地球上の主要な地域をカバーできたからだ。

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 1900年には地震学者の同僚から資金援助が得られたお陰でシャイド地震観測所も設備が整い、本格的な観測を始めることができた。

  • 明治28年(1895年)、トネ夫人と共にイギリスに帰国し、住居を南イングランドワイト島シャイドに構えて研究を続ける。その後、東京帝国大学名誉教授の称号を受ける。
  • 明治31年(1898年)、著書「地震学」を出版する。

ミルンは人がほとんど感じることの無い地殻変動の研究、つまり微小地震(地震とは無関係の小さな地動)と遠地地震(遠くで起こった地震が原因で起こる地動)の研究に集中した。 東京でグレイと共同で開発した水平振子地震計を大いに活用。 国内と世界各地の観測所新設計画も進められ、水平振子地震計が合計40設置された。 日本では東京帝大構内に拠点が設けられた。 南極点を目指したスコット探検隊(1910~12)にも働き掛けて、地震計を南極にも置いて来てくれるように依頼した。

このように世界中で測定されたデータは全てシャイドに送られて分析された。 データ量は相当のもので、広田助手の存在にミルンは心から感謝することになる。ミルンが、英国高等科学研究所内に新しく設置された地震学調査委員会の主事の役目を果たすことができたのも、広田助手のサポートあってのことだった。 委員会を通して、また、「シャイド地震機関誌」の紙面で地震学の分野に国際的な学術交流が必要であることをミルンは強く訴えた。 この後20年間、シャイド地震観測所は世界の地震学の中枢となるが、ミルンの熱意が実を結んだからと言えるだろう。 ミルンは数々の論文をまとめて2冊の本として出版している。バートンとの共著で「地震とその他の地球の運動」を1886年に、「地震学」を1898年に刊行。 これらの著書は地震学の貴重な教科書として活用された。

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  • お雇い御雇外国人は、幕末から明治にかけて、「殖産興業」などを目的として、欧米の先進技術や学問、制度を輸入するために雇用された外国人で、欧米人を指すことが多い。 お抱え外国人とも呼ばれることもある。

「お雇い外国人」と呼ばれる人々は、日本の近代化の過程で西欧の先進技術や知識を学ぶために雇用され、産・官・学の様々な分野で後世に及ぶ影響を残した。 江戸時代初期にはヤン・ヨーステンウィリアム・アダムスなどの例があり、幕府の外交顧問や技術顧問を務め徳川家康の評価を得て厚遇された。 幕末になり鎖国が解かれると、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが一時期幕府顧問を努め、レオンス・ヴェルニー横須賀造兵廠の建設責任者として幕府に雇用された例などがある。 しかし、外国人の雇用が本格化するのは、明治維新以降である。

ひと口に「お雇い外国人」とはいうものの、その国籍や技能は多岐に亘り、1868年から1889年までに日本の公的機関・私的機関・個人が雇用した外国籍の者の資料として、2690人のお雇い外国人の国籍が確認できる。内訳は、イギリス人1,127人、アメリカ人414人、フランス人333人、中国人250人、ドイツ人215人、オランダ人99人、その他252人である。また期間を1900年までとすると、イギリス人4,353人、フランス人1,578人、ドイツ人1,223人、アメリカ人1,213人とされている。

1890年までの雇用先を見ると、最多数のイギリス人の場合は、政府雇用が54.8%で、特に43.4%が工部省に雇用されていた。 明治政府が雇用したお雇い外国人の50.5%がイギリス人であった。 鉄道建設に功績のあったエドモンド・モレルや建築家ジョサイア・コンドルが代表である。

アメリカ人の場合は54.6%が民間で、教師が多かった。政府雇用は39.0%で文部省が15.5%、開拓使が11.4%であるが、開拓使の外国人の61.6%がアメリカ人であった(ホーレス・ケプロンウィリアム・スミス・クラークなど)。 フランス人の場合は48.8%が軍の雇用で、特に陸軍雇用の87.2%はフランス人であった。 幕府はフランス軍事顧問団を招いて陸軍の近代化を図ったが、明治政府もフランス式の軍制を引き継ぎ、2回の軍事顧問団を招聘している。のちに軍制をドイツ式に転換したのは1885年クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル少佐を陸軍大学校教官に任じてからである。

また、数は少ないが司法省に雇用され不平等条約撤廃に功績のあったギュスターヴ・エミール・ボアソナードや、左院でフランス法の翻訳に携わったアルベール・シャルル・デュ・ブスケなど法律分野で活躍した人物もいる。 ドイツ人の場合は政府雇用が62.0%であり、特に文部省(31.0%)、工部省(9.5%)、内務省(9.2%)が目立つ。 エルヴィン・フォン・ベルツをはじめとする医師や、地質学のハインリッヒ・エドムント・ナウマンなどが活躍した。

オランダ人の場合、民間での雇用が48.5%であるが、海運が盛んな国であったことから船員として働くものが多かった。 幕府は1855年、長崎海軍伝習所を開設し、オランダからヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケらを招いたため海軍の黎明期にはオランダ人が指導の中心となったが、幕末にイギリスからトレーシー顧問団が招聘され(明治維新の混乱で教育は実施されず)、さらに明治新政府に代わってからは1873年ダグラス顧問団による教育が実施され、帝国海軍はイギリス式に変わっている。 他に土木の河川技術方面でヨハニス・デ・レーケら多くの人材が雇用された。

イタリア人はその人数こそ多くなかったものの、工部美術学校アントニオ・フォンタネージらが雇用された。またエドアルド・キヨッソーネが様々な分野で貢献した。

お雇い外国人は高額な報酬で雇用されたことが知られる。 1871年の時点で太政大臣三条実美の月俸が800円、右大臣岩倉具視が600円であったのに対し、外国人の最高月俸は造幣寮支配人ウィリアム・キンダーの1,045円であった。 その他グイド・フルベッキアルベール・シャルル・デュ・ブスケが600円で雇用されており、1890年までの平均では、月俸180円とされている。

身分格差が著しい当時の国内賃金水準からしても、極めて高額であった。 国際的に極度の円安状況だったこともあるが、当時の欧米からすれば日本は極東の辺境であり、外国人身辺の危険も少なくなかったことから、一流の技術や知識の専門家を招聘することが困難だったことによる。 多くは任期を終えるとともに帰国したが、ラフカディオ・ハーンジョサイア・コンドルエドウィン・ダンのように日本文化に惹かれて滞在し続け、日本で妻帯あるいは生涯を終えた人物もいた。

07-25-4

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