日本地震学の父/ジョン・ミルン=07=

07-26-1

❢❢❢ 実験、そして開発 ❢❢❢

ワイト島での生活に慣れることはミルン夫妻、特にトネにとって容易では無かったものの、徐々に地域に溶け込んでいった。 シャイド・ヒル・ハウスへはとにかく訪問客が多かった。 地震学関係の専門家はもちろんのこと、学生やジャーナリストが頻繁に訪れた。 そんな中、トネは日本からの来客を特に心待ちにしていた。 インターネットの無い時代、何より日本のニュースを知りたかっただろうし、日本語での会話を楽しみたかったに違いない。

ところで、英国人の訪問客の中に、バーミンガムの近くで質屋を営んでいたジョン・ショウという人がいた。アマチュア地震マニアで、ミルンに非常に影響を受け、自宅地下室を地震観測のための実験室に造り替えたという。 後にミルンとショウは共同でミルン・ショウ式地震計を開発するまでに至る。 後にグレイ・ミルン式地震計は1924年で姿を消し、以降はミルン・ショウ式地震計が取って代わることになる。
研究に没頭する中、わずかな余暇の時間をミルンはフルに活用したようだ。 ミルンはゴルフやクローケーが好きで、ゴルフに出掛ける時はいつも愛犬ビリーを連れて行ったという。 加えて、広田助手と共に写真も趣味にし、ワイト島写真クラブの会長を務めていたとされる。 ミルンは何事も懲り出すととことん追求するタイプだったのだ。

シャイドでの地震観測に二人三脚で取り組んできた広田助手が体調不全から1912年12月に日本へ帰国、その後間もなく亡くなった。 ミルンもつられるように具合を悪くしていた。 ブライト病に冒されており、絶えず頭痛に苦しめられていた。 1913年7月半ばにはベッドから起き上がれず、月末に昏睡状態に陥り62歳で亡くなった。

葬儀はニューポートの教会で執り行われ、多くの人が弔意を表すために足を運んだ。 日本からは九条男爵が大正天皇の代役として参列した。 井上大使は弔意で「英国と世界の科学界にとって、そしてその名前が決して忘れられることのない日本にとって大きな喪失です」と述べている。 ミルンは同じくニューポートのセント・ポール教会に埋葬された。

ミルンの突然の死は、学術界に「ショック・ウェーブ」を巻き起こした。 英国高等科学研究所や国際地震学協会がミルンの功績を振り返り敬意を表し、偉大な科学者の他界を惜しんだ。 研究者としてだけではなく、人間的にも多くの人に影響を与えたことは、日本時代からの同僚かつ友人であったジョン・ペリーの言葉からもわかるだろう。
「ミルンの才能は、自分の研究にあらゆる人を惹きつけることができたことだ。 一方でミルンは謙虚だった。地震学以外の分野にも興味を示し、他の研究から学ぼうとした。 そしてミルンは最高の友人だった。 日本でもシャイドでもいつも時間を作ってくれ、大切にもてなしてくれた」。

ミルンはまた、妻思いの良き夫だった。 トネを残して逝くことを非常に懸念し、トネが経済的にも社会的にも困らないようにあらゆる配慮を行っていた。 トネは一人になってからもシャイドでの生活をしばらく続けたが、体調を崩してしまう。 函館への恋しさも募り、また、トネを英国に引き留めるものもなくなり、トネはついに帰国。 愛する函館で、1919年に生涯を終えた。 1926年に函館墓地で、ジョンとトネ・ミルンの追悼式が催され、2人の墓石が立てられている。

07-26-2

❢❢❢ ミルン地震学と地震予知 ❢❢❢

東京大学地震研究所 泊 次郎 (記念公演より) =特別研究員

近代的な地震学の基礎を築いた英国人ジョン・ミルン(John Milne)が亡くなって今年で100年になる。地震学者としての彼がどのような一生を過ごしたのか、日本の地震学の発展の上で彼はどのような足跡を残したかについては、レスリー・ハーバート・ガスタ、パトリック・ノット著『明治日本を支えた英国人・地震学者ミルン伝』(日本放送出版協会,1980年)や藤井陽一郎著『日本の地震学』(紀伊国屋書店,1967年)などに詳しく紹介されている。

これらの書では余り触れられていないが、ミルンは地震学の重要な任務は地震を予知する方法を発見することであると考えていた。 そして、地震の前兆ではないかと考えられた様々な現象を研究し、その結果にもとづいて、地震予知を実現するためにどのような戦略を取るべきかについても具体的な提言を行った。 ミルンは日本での地震予知研究の先駆者といえるのである。 現在の地震予知研究もミルンから多くを受け継いでいると考えられる。

もちろん,ミルンは日本の地震工学の歴史の上にも多大な功績を残している.これについては、柴田明徳先生の論説にお任せすることにし、ここではこれまでほとんど知られることがなかった日本滞在中のミルンの地震予知研究について紹介したい。

若い頃のミルンは,地震学はどのようなものであるべきだと考えていたのであろうか、これには1880年4月の日本地震学会の第2回総会で彼が行った「Seismic Science in Japan(日本における地震科学)」と題する記念講演が参考になる。 彼が30歳、お雇い外国人として来日してから5年目のことである。
ちなみに日本地震学会は,1880年2月に起きた横浜地震をきっかけに同年3月に設立総会がもたれた。 会長は代々日本人が務めたが、会員の3分の2以上は外国人であった。 ミルンは副会長に選ばれていた。

ミルンのこの講演の目的は,地震学のこれまでの歩みを振り返るとともに、地震学を日本でどのような方向に発展させるべきかを指し示すことであった。 ミルンはまず、地震学の研究の対象は地震動の記載だけにとどまらず、地震の原因から 地震がさまざまなものに及ぼす影響まで、地震に関するあらゆる現象を考究の対象にすべきであり、地震学は地質学者ばかりでなく、物理学者、気象学者、天文学者、数学者、工学研究者、それに医者や歴史家にとっても重要である と説いている。

そして本題に入り,ミルンは「地震学が研究されるようになって以来、その学徒の主要な目的のひとつは、地震の到来を予言(foretell)する何らかの方法を発見することである」 「こうした大災害の到来を前以て知る能力は、地震国に住むすべての人々にとって見積もり不可能なほどの恩恵になるであろう」などと述べ、地震予知の研究が地震学の重要な問題であることを説いた。

続いて、地震がよく起きる国ではさまざまな現象が地震の近づいたことと関連付けて考えられているとして、その例をあげた。 例えば、地震の前の動物の異常な行動や天候(気温・気圧・風)、季節、電磁気現象、発光現象、太陽の黒点、太陽や月の位置と地震との関係などである。 ミルンは「これらの問題を解決するには、正確な記録を長期間集めることである」と観測の重要性を説く一方で 例えば月の引力の変化が地震を起こしえるかなどについては、理論的な考察の重要性も訴えている。

もちろん,地震計の改良や地震が建物に及ぼす影響やそうした影響を避けるための最上の方法を研究することなども地震学の重要な課題である、と述べてはいる。 しかしながら最後に再び地震予知の話題に戻り、地震予知を実現するためにどのような方法があるかについて述べているのを見ると、地震予知に対する彼の情熱は並大抵のものではなかったことがうかがえる。

ミルンはこの3年後の1883年に『Earthquakes and Other Earth Movements(地震と他の地球の運動)』と題する地震学の解説書を出版した。 全21章からなるこの書の第18章は「Prediction of Earth­quakes(地震の予知)」である。 ここでも再び、地震予知の方法を発見することが地震学の主要な目的のひとつである と主張している。
そして,地震を警告する人に要求されるのは、地震の起きる時間と同時に起きる地域を指定することである、と「地震予知」の要件をも示している。 日本のように地震の多い国では、時間と地域を指定しなければ、いつか地震が起きるとの予言は大抵当たってしまうからである。

07-26-3

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===== 続く =====

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