不沈客船タイタニックの悲劇=01=

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❢❢❢ 優雅さを追い求めたホワイトスター・ラインの船 ❢❢❢

18世紀までのヨーロッパからの移民がおもに年季契約のかたちをとった労働移民であったのに対し、19世紀には自由移民が主流となった。 19世紀のヨーロッパでは、人口の増大や交通機関の発達などにより大規模な人口移動がおこった。 各国では人口の都市への集中がみられるいっぽう海外移民も増加した。 第一次世界大戦までの100年間に新大陸に渡ったヨーロッパ人は6000万人におよび、19世紀はまさに「移民の世紀」であった。 「移民の世紀」と言われる19世紀、アメリカは夢と希望の新天地であった。 当時のヨーロッパは、貧困や政治的、宗教的迫害など多くの問題を抱えており、生きる希望を求めて、あるいは一攫千金を夢見て、人々は新大陸を目指した。

1865年からの30年間にアメリカに渡った移民は、年平均すると、英国から11万9000人、ドイツから10万7000人。 その後、ロシア、ポーランド、イタリアからの移民も加わり、北大西洋航路を走る旅客船の需要が高まっていった。 各国の船会社は次々と配船に乗り出し、旅客のスピード化と大型化、運賃競争に拍車がかかっていく。 やがて北大西洋を最速で横断した船には、「ブルーリボン賞」という栄誉が与えられるようになり、ますますスピード競争が激化していった。

ホワイトスター・ライン社(White Star Line)の社長トーマス・イズメイは、こうした風潮の中でも、スピードと大きさ、豪華さのすべてを求めるのは経済的に高くつきすぎると判断し、贅沢さに重点を置いた船で同社の評判を築き上げた。 トーマスの死後、この会社を継いだのが息子のブルース・イズメイ(J.Bruce Ismay、1862~1937年)、後にタイタニック号の生みの親となる人物である。

ホワイト・スター・ラインは1845年、ジョン・ピルキントンとヘンリー・ウィルソンがリヴァプールに設立した。 当初は帆船を用いた貨物輸送に従事していた。 しかし、1867年破産葦し、1867年造船王トーマス・ヘンリー・イズメイに買収され汽船会社に再編成されたのを契機に大手船舶会社へと成長した。 オーシャン・ライナーといわれる数々の客船を運航させ、同じイギリスの海運企業であるキュナード・ラインと19世紀後半から20世紀初頭にかけ激しい競争を繰り広げた。 1899年、トーマスの死去に伴い、息子であるブルース・イズメイがその後を引き継いだ。 1902年には、J・P・モーガンによって、国際海運商事(IMM)の子会社となっている。

そして1907年、ハーランド・アンド・ウルフの会長ビリー卿はホワイト・スター・ラインの社長ブルース・イズメイに、3隻の巨大客船の計画を持ちかけた。 これは当時、就航して間もないキュナード・ラインの豪華高速客船ルシタニアとその姉妹船モーリタニアに対抗するためであった。 こうして建造されたのが、オリンピックタイタニックブリタニックである=3隻をまとめて、オリンピッククラスと呼んでいた=。

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 タイタニック号の建造計画が立ち上がったのは1907年。 当時、ホワイトスター・ライン社の最大のライバルは英キュナード・ライン社であった。 北大西洋上でもっとも速くて豪華な船の建造を目指していたキュナード・ライン社は、2隻の客船ルシタニア号とモレタニア号の航行を成功させていた。 イズメイは、これに対抗するにはさらに華やかな3隻の姉妹船が必要だと考え、19068年12月に1隻目となるオリンピック号を、その数ヵ月後に2隻目となるタイタニック号を起工。 オリンピック号の進水式が済むと、3隻目のブリタニック号の造船に着手した。

タイタニック号の処女航海は1912年2月に予定されていたが、先に華々しく運航を開始していたオリンピック号が英国海軍のホーク号と接触事故を起こし、ドック入りしたことで遅延が発生。 タイタニック号建造にかかわっていた作業員たちが、オリンピック号の修理にかり出され、タイタニック号の作業は一時中断されることになってしまったからだ。 翌3月、タイタニック号がようやく完成し、予定より2ヵ月ほど遅れた4月10日が、処女航海への出港日に決まる。

しかし、この少しの遅れが、タイタニック号を悲劇的な終焉へと導く幕開けとなってしまう。 北大西洋を横断する船にとって、4月から夏頃は海流に乗って南下した氷山群がニューファンドランド沖に現れる、一年のなかでも一際危険な季節。 さらに、この年は過去50年にもなかったほど大量の氷塊群が南下し、北大西洋航路上を漂っていたのだ。

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 ☛ ☞  タイタニックの事故を予知した人々! 其の1/5

タイタニックの出航直前に、まるで悲劇を予想したかのように乗船をキャンセルした人びとがいた。それも55人という、普通ではありえない数だった。いったい彼らに何があったのだろうか?

船員のトム・シムズは、タイタニック号の乗組員募集に応募して採用されて喜んでいたが、母親のエリザベスはそうではなかった。不思議な予感を働かせて先々の出来事を予知する彼女は、タイタニック号が惨事に遭遇することを確信するあまり、船会社のオフィスを訪れて、息子の名前を乗員名簿から削ってくれるよう懇願したのだった。結果はいうまでもなく、出航したタイタニック号の船員の中にトムの姿はなかった。

キャンセルした55人のほかにも、乗船をとりやめようとした人がいた。当時世界的に有名だった鉱山技師ジョン・ウィアーは出発前にロンドンのウォルドーフ・アストリアホテルに滞在していたが、4月10日の朝目覚めると、ベッドサイドテーブルに置いてあった水差しが粉々に割れていた。水がこぼれ、力ーペットまで濡れていた。不吉な感覚に襲われたウィアーは、ホテルの支配人を通じてキャンセルするよう頼もうとした。しかし支配人は、技術の粋を結集して作られたタイタニックが「不沈」であることを強調し、ウィアーの予感を「迷信深さ」としてなだめた。ウィアーは予定通りタイタニックに乗ったが、どうしても不吉な気持ちが拭いきれない。そこで秘書に相談し、人が出入りできる最後の港だったアイルランドのクイーンズタウンで下船しようと持ちかけたが、秘書はまったく取り合わなかった。そしてアメリカ目指して大西洋に出た直後、タイタニックが氷山と激突して沈没するという事故が起きたのだ。

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===== 続く =====

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