不沈客船タイタニックの悲劇=08=

08-04-1

☛ ☞   致命的な損傷

タイタニック号は4つの区画が同時に浸水してダメになっても浮いていられた。 ところが、5つまで浸水してしまうともう浮いていられなかった。 船が傾くにつれて、防水扉を乗り越えて、次々と別な区画に流れ込み浸水していくからだ。 防水壁は上までつくられておらず、完全密閉型ではなかったのである=前節イラスト参照=。

被害状況を調べていた設計主任のアンドリュースは、損傷はただならぬ状態で、致命的なダメージであると判断した。  「駄目だ・・・。 もはや沈没はまぬがれない。 船は沈む。 後は時間の問題だ」と 彼は設計図面に目をやりながら沈痛な声でつぶやく。  後どくらい持つのかという問いにアンドリュースは力なく答えた。

「1時間かその程度、いくら持っても2時間は無理だろう・・・」   前記のように、トーマス・アンドリュース(1873~1912)は北アイルランドの名門の生まれ。 航海中のチェックのためタイタニックに乗り込んでいた。 仕事熱心で誠実な人柄として知られる。  一方、スミス船長は頭を抱えたままだった。 この時、彼の脳裡をかすめるものは一体何だったのだろうか? これまで順風満帆で来た誇りある人生への悔やみなのか、それとも残酷な神に委ねられた乗客の運命についてなのだろうか?

エドワード・スミス船長(1850~1912)は、1904年にホワイト・スターライン社の主席船長となる。 華々しい経歴、人望は目に見るものがあるが、反面、自信過剰を指摘する研究家もいるのだが。  衝突から30分経った零時5分。 スミス船長は乗客をただちにデッキに集め、救命ボートを降ろすことを命令する。 それからSOSを打電させるために無電室に急いだ。  もう一刻の猶予も許されない。 船に備わっている救命ボートは20艘しかないのだ。 2207名中、救命ボートに乗れる数は半分にも満たないのである。

未だ危機が近づいているとは知らない乗客たちは、眠気眼をこすりながらゾロゾロと部屋から出て来た。  救命胴着をつけろと言われても、まさか沈むとは思っていなかったので嫌がる客もいた。 頼りない手漕ぎボートで夜の海に乗り出して行くより、びくともしない本船の方が安全だと信じ込んでいるのである。 この時点では、船はまだ傾いてはおらず、事態が深刻な状態になっているとは誰も思わなかった。

まもなく救命ボートが降ろされ始めたが、船員の多くはろくに訓練も受けておらず、どう扱っていいのか知る者はいなかった。 おろおろするばかりで時間ばかりが経ち、一向にはかどる気配すらない。 結局、ボートがやっとこさ降ろされ出したが、手際が悪く、最初のボートなど65名ほど乗れるのに半分も乗っていない有り様である。 中にはわずか25名ほどしか乗っていないのに降ろされたボートすらあった。 ボートはその後、メガホンで戻って来いと命令されても二度と戻っては来なかった=救命ボートの絶対量不足の件、前節参照=。

08-04-2

 ☛ ☞   タイタニック号からの救命信号

タイタニック号からの世界初の信号・・・それはCQDと言うものだった。 「CQ」は全ての電信局と言う意味で「D」は緊急呼び出しだった。 船にもコードがあるらしく、タイタニック号はMGYというコード名だった。 通信士達は信号を打ち始めたがやがてSOSへと変わる。 これは1908年により覚えやすいものに改良しようという事で新しく設定されたものだが、まだSOSを使用される事がなかった。
記録に残るSOSの使用はタイタニック号が最初となっているが、タイタニック号より前にSOS信号を出した船がいると判明。 よってタイタニック号は世界初では無い。

☛ ☞  脱出・救命

沈没が差し迫ったタイタニックでは左舷はライトラー2等航海士が、右舷はマードック1等航海士が救命ボートへの移乗を指揮し、ライトラーは1等船客の女性・子供優先の移乗を徹底して行い、一方のマードックは比較的男性にも寛大な対応をした。
しかし、当時のイギリス商務省の規定では定員分の救命ボートを備える必要がなく=救命ボートの絶対量不足の件、前節参照、規定が改訂されたのは、タイタニックの沈没後=、またデッキ上の場所を占め、なによりも短時間で沈没するような事態は想定されていなかったために、1178人分のボートしか用意されていなかった。

規定では978人分とされているのは、規定が1万トン級船舶が主流だった頃に作成されたものだったからである。 またタイタニック起工直前の1909年1月に起こった大型客船「リパブリック号」沈没事故も影響していたといわれる。 リパブリック号沈没事故では、他船との衝突から沈没まで38時間もの余裕があり、その間に乗客乗員のほとんどが無事救出されたことから、大型客船は短時間で沈没しないものであり、救命ボートは救援船への移乗手段であれば足りるという見方が支配的になったことも、後述するように犠牲者を増やす結果につながった。

また、定員数一杯に乗せないまま船を離れた救命ボートも多い。 これはライトラー2等航海士を含め、多くの士官がボートをダビット(救命ボートの昇降装置)に吊り下げたまま船が沈没することを最大の恥辱と感じていたため、できるだけ早く海面にボートを下し、舷側にある乗船用扉を開いて、乗客を乗せようと考えていたこと、タイタニックの乗組員の多くが未熟で、ボートフォール(救命ボートを吊るロープ)の扱いに慣れていなかったことや、ダビットが乗員の重さで曲がってしまうことを恐れたためともいわれる。 実際にはボート設備の施工時に、定員65人乗りのボートに70人乗せてテストを行い良好な結果を得ていたが、その結果を船員に周知しきれていなかった。 最初に下ろされた中には、定員の半数も満たさないまま船から離れたボートもあった。 そして結局、1500名近い乗員乗客が本船から脱出できないまま取り残される状況となってしまった。

☛ ☞  舵手ヒッチンズの疑惑の行動  

事故当時舵手をしていたのはヒッチンズでした。 しかしヒッチンズはある悲惨な行動をしていました。 タイタニック衝突後、ヒッチンズはボートに乗って指示係を命じられました。 そしてそのボートにはあまり人が乗らないまま降ろされました。 しかし船長のスミス船長はそれがあまりにも少なすぎたため、大きいメガホンで呼び戻しました。 しかしヒッチンズは聞こえないふりをしてそこから遠ざかったのです。 そしてタイタニック号が完全に沈没してしまいました。 が、ヒッチンズは「あそこへは戻れない。 皆がボートにしがみつき、ボートが転覆する」と 言ったのでした。 そして救助されてから数日後・・ヒッチンズはその行動を罪とされ、重い懲役を受けています。

☛ ☞ エドワード・スミス船長の最後

タイタニックが沈んだ際、スミスがどのように亡くなったのかは諸説がある。 遺体回収の際、スミスの遺体は発見されておらず、生存説もあるが・・・・・・・・。 数人の生存者たちは、救命胴衣を身に付け海中にいるスミスを目撃したと証言している。 一方で、オープンブリッジに浸水が及ぶ中、操舵室にいるスミスを見たという証言もある。
ロバート・バラードの『タイタニック発見(The Discovery of the Titanic)』では、沈没の10分前にあたる午前2時13分にスミスがブリッジに入っていったとしている。 この説は1997年の映画『タイタニック』でも採用されている。 しかしこの他にも、Aデッキプロムナードまで戻ったスミスが、その直後に窓が割れて船内の大階段に向けて吸い込まれていくのを見たという証言もある。 タイタニックは4月14日の23時40分頃氷山に衝突したが、翌日の2時23分まで沈まなかった。 このことは、スミスの死亡日が1912年4月15日であることを裏付けている。

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☛ ☞ タイタニックの事故を予知した人々!

タイタニックの出航直前に、まるで悲劇を予想したかのように乗船をキャンセルした人びとがいた。 それも55人という、普通ではありえない数だった。 いったい彼らに何があったのだろうか?

船員のトム・シムズは、タイタニック号の乗組員募集に応募して採用されて喜んでいたが、母親のエリザベスはそうではなかった。 不思議な予感を働かせて先々の出来事を予知する彼女は、タイタニック号が惨事に遭遇することを確信するあまり、船会社のオフィスを訪れて、息子の名前を乗員名簿から削ってくれるよう懇願したのだった。 結果はいうまでもなく、出航したタイタニック号の船員の中にトムの姿はなかった。

キャンセルした55人のほかにも、乗船をとりやめようとした人がいた。 当時世界的に有名だった鉱山技師ジョン・ウィアーは出発前にロンドンのウォルドーフ・アストリアホテルに滞在していたが、4月10日の朝目覚めると、ベッドサイドテーブルに置いてあった水差しが粉々に割れていた。 水がこぼれ、力ーペットまで濡れていた。 不吉な感覚に襲われたウィアーは、ホテルの支配人を通じてキャンセルするよう頼もうとした。 しかし支配人は、技術の粋を結集して作られたタイタニックが「不沈」であることを強調し、ウィアーの予感を「迷信深さ」としてなだめた。

ウィアーは予定通りタイタニックに乗ったが、どうしても不吉な気持ちが拭いきれない。 そこで秘書に相談し、人が出入りできる最後の港だったアイルランドのクイーンズタウンで下船しようと持ちかけたが、秘書はまったく取り合わなかった。 そしてアメリカ目指して大西洋に出た直後、タイタニックが氷山と激突して沈没するという事故が起きたのだ。 他にも惨事を予感した人びとがいた。 とくに乗組員の妻たちは、何人かが不吉な予感にとらわれ、夫に不安を打ち明けている。 そのなかのひとりに、ガッディ夫人がいた。 夫のルイジ・ガッディは、船内の高級レストランの支配人だった。 ガッディ夫人は、航海が決まってからというもの、妙な胸騒ぎに襲われていた。 なぜかはわからない不安や恐れなどを感じ、夫に船に乗ることをやめるよう、いいつづけていたのである。 しかし、レストランの支配人が乗らないわけにはいかない。 心配する夫人をなだめ、ガッディはタイタニックに乗りこんだ。ガッディは運よく助かり、生還した。 生きて戻ってから夫人の言葉を思い出し、的中した夫人の予言を終生忘れることがなかったという。

旅客係として乗船しようとしていたアーサー・ルイスは、制服の胸に付いた銀の星がいきなり粉々に割れるのを目の当たリにした。 これを見た妻は、夫が船に乗らないよう懇願したくらいだ。 しかし、乗船間際の時点で家に引き返すわけにはいかない、大丈夫さ、と言ってタイタニックに乗り込んだルイスだったが、もちろん事故に遭遇してしまった。 しかし彼の場合、奇跡的に助かった。 彼は「やはり星が割れたのは、不吉な前兆だったのでしょう」と後になって語っている。

乗組員自身にも”嫌な感じ”を訴える人びとがいた。タイタニックの航海士長を務めたのは、H・T・ワイルドであった。 ワイルドは、なかなかタイタニック号に乗ろうとしなかった。 出航日である4月10日の朝までに乗ればよい、ということになってはいたものの、皆それよりも早く乗っており、スミス船長ですら6日から乗りこんでいた。 ワイルドが船に乗ったのは、出航前日の9日になってからだった。そして、大西洋に出て一日目に、イギリスにいる妹に向けて次のような手紙を書いている。 「どうもこの船は好きになれない。言葉では言えないような、いやな感じがする」。 最後の寄港地であるクイーンズ・タウンでこの手紙を出し、ワイルドは航海へと旅立っていった。 この手紙を受け取った妹は、タイタニックが氷山と衝突した夜一睡もできなかったという。

せっかく受けていた忠告が、むだになった人もいた。 エディス・エヴァンスは遭難し、迫りくる海水を前にして思い出した言葉があった。 それは、以前に見てもらった占い師の「水に気をつけなさい」という忠告だった。たいして気にもとめていなかった言葉が、悲劇に直面したそのときに蘇ったのである。 それは、あまりにも遅すぎたといえる。

08-04-4

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===== 続く =====

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