不沈客船タイタニックの悲劇=09=

08-05-1

❢❢❢ 死にゆく人々の運命  ❢❢❢

タイタニック号から、大西洋を航行するすべての船にSOSの無電が発せられた。 「ラ・プロバンス」号、「マウント・テンプル」号、「マーシャ」号、「カルパチア」号「バルチック」号「バージニア」号などがこの無電を受け現場に急行すると返答して来た。 中でもカルパチア号は90kmほどの地点におり、これらの中でも一番近い距離にいた。 しかし全速で駆け付けても4時間はかかると思われた。 これでは間に合わない。

ところがこの時、わずか16kmほど離れた海上に「カリフォルニア」号という汽船が停泊していたのである。 だが不運なことに、船の無電係りはスイッチを切って寝てしまっていたので、この救難信号を聞く者はなくつんぼ同然の状態だった。 夜空に向けて何発かの救命用の花火が打ち上げられたが、カリフォルニア号の経験の浅い見張り員は、この花火の数を興味本位で数えるだけで、それが何を意味するものかも知らずにいた。

カリフォルニア号のロード船長は、何かの合図だろうが放っておいてよろしいといって寝床にもぐり込んでしまった。 もしもこの時、いち早くカリフォルニア号が救助に駆け付けていたら、これほどの犠牲者は出さなかっただろう。 タイタニック号は救われるべくして救われなかったのだ。 まさに運命の神から完全に見放されていたのである。

船の電気は人々の心配を打ち消すためにギリギリまで明々とつけられていた。 楽団員は乗客がパニックを起こさぬようにワルツを演奏し続ける。 最後になって、デッキにいよいよ海水が押し寄せて来た時、彼らは賛美歌を演奏した。 最初の航海で最期となった悲劇の船へのせめてもの鎮魂歌を奏でようとしたのであろうか。

「主よ、今こそみもとに近づかん」その賛美歌は暗い海の上に響きわたった。
彼らは海水に膝まで浸かりながらも演奏を止めなかった。 そして、すべての楽団員は沈没と同時に船と運命を共にしたのであった。

ある者は最上の服を着て潔い態度で死に望もうとした。 ある老夫婦は部屋に戻り最後の瞬間を迎えようとした。 ある婦人は愛犬とともにボートに乗り込もうとして拒否されると、部屋に戻り愛犬とともに運命を共にする方を選んだ。 ある人は死の旅立ちにあたり礼装に着替えてゆう然と読書を楽しんだ。 ある船員は二人の娘を連れた三等の女性客に自分の救命胴着を与えボートまで案内した。 そして、ご無事でしたら私のために祈って下さいと言った。

最愛の家族と別れのキスをして、自分はデッキに残って笑顔でたたずむ夫。 一度はボートに乗ろうとしたものの、一緒に運命をともにしようと夫のもとに戻って来た妻・・・・死出の旅立ちに際して、数々の涙を誘う自己犠牲の物語、言葉ではあらわせない感動の人間ドラマがわずかな時間内にとり行われた。
その反面、自分だけ助かろうとした、エゴむき出しの醜い話も伝えられている。 女子供を押しのけて、赤ん坊を踏みつけてまでボートに乗ろうとした者もいた。 中には、女物のショールを被ったり、女装したりしてボートに乗り込もうとした者もいたらしい。 ホワイト・スターライン社の社長だったブルース・イズメイなどは、ボートが下ろされる寸前に、客になりすましてこっそりと飛び乗った。 これほど厚顔無恥な行為もないであろう。

・・・・・・・・・やがて最期の時が訪れようとしていた。 船が急に傾き始める。

今まで明々としていた明かりが一斉に消えた。 たちまち半狂乱となった人々は悲鳴をあげてパニックとなる。  船首部分は浸水の重みで海中深く沈んでいき、その反動で船尾が高く持ち上げられていく。
やがて巨大なスクリューが海水をしたたらして海面上に姿をあらわした。 ワゴンがガラガラとすごい音を立てて転がっていき、大きなグランドピアノは脚が折れて横倒しになる。 食器は棚からなだれのように落下して片っ端から壊れてゆく。 デッキでは、何十人という人間や荷物などが一固まりとなって甲板上を猛烈な勢いですべり落ちていった。

空中高く持ち上げられた船尾は、やがて船全体の重量を支えきれなくなり、突如、中央部分からバリバリ、メリメリというけたたましい音をあげて裂け始めた。 怒鳴り合う罵声、女の金切り声が夜の闇にこだまする。 船体の半分となった船尾部分は、海面から突き立ったまま、ほぼ垂直の恰好でほんのしばらくのあいだ静止していた。デッキの手すりにかろうじてぶら下がっていた者がバラバラと暗い海上に振り落されてゆく。

しかし、その奇妙な釣り合いの状態も長くは続かなかった。 まもなく海面下から蒸気がシュー、シューと吐き出され、奈落の底にでも落ちていくかのように、残りの船尾部分はものすごい勢いで海中に向かって降下を始めた。 かくして1912年4月15日午前2時20分、不沈を誇った豪華客船、タイタニック号は永久に海面下にその姿を没し去ったのであった。

後は、氷のような海で助けを求めて必死にもがいている1500名の人々だけが取り残された。 暗い海面で名前を呼び合う声、助けを求める叫び声が響いていた。 しかし人々の悲痛な声を聞いても、近づいて助けようとするボートはなかった。 この時の水温は氷点下以下で、骨の芯まで痺れるほどの恐ろしい冷たさだ。 これほどの低温になると、人間は海中では長くは生きていられない。 ほとんど20分から30分程度で凍死してしまうのだ。 恐らく、船上から飛び込んだ瞬間に心臓麻痺で死んだ人間も多くいたにちがいない。

海上に漂っているボートは、どれもこれも定員以下でほとんどが半分以上の空席があった。 それにもかかわらず戻ろうとするボートはなかった。 誰も彼も自分のことだけで頭が回らないようであった。 どのボートでも引き返して救助しようと言う人間とそうはさせまいとする人間の対立でもめていた。 5号ボートでは婦人たちがどうか戻らないで下さいと懇願するので、オールを握っていた船員たちはためらっていた。

08-05-2

 誰もが、助かりたい一念で藁をもすがろうとする人々によって、ボートが転覆させられるのではないかという不安を持っていた。 あるボートでは近寄って来る人の頭をオールでたたいて近づけないようにした。 すがりついた死にかけの男の顔をこぶしでなぐった婦人さえいる。 一等船客用の1号ボートなど定員よりはるかに少ない12名しか乗っていないにもかかわらず、最後まで近づこうともしなかった。 結局、氷のような海に投げ出された1500人のうち、助けられたのはたったの6人だけであった。

夜が明け始めた頃、救助にかけつけたカルパチア号の船員が見たものは、海面に漂う見渡す限りの凍死した人々の群れであった。  遺体のほとんどは救命胴着をつけたままであったので沈むことはなかった。 全財産の入ったトランクをしっかり抱いたまま息を引き取った人、赤ん坊を抱いたまま死んだ母親などの痛ましい姿も数多くあった。

遺体は甲板に引き上げられ、そこでも等級別に並べられた。 一等客だとわかると棺に丁重に納められ、二等や三等はキャンパスに包んでデッキ上に置かれるだけである。  身元不明の3等客に至っては、水葬のため再び海に投棄された。 遺体の中には2か月近くも漂流してから発見されたのもあったという。

☛ ☞  他客船が救命に行かなかった訳

最終的に救命に来たのは58海里離れていたカルパシア号でした。 しかしそれよりも近い船はいた。 一番近かったのがマウントテンプル号でタイタニック号からわずか14海里しか離れていませんでした。 それはタイタニック号に氷山警告信号を送ったが無視されたのでマウンテンプル号の通信機は電源を落としていたからと言われています。 それでタイタニックからのSOSをキャッチできなかったのです。 そして次に近かったのがタイタニック号から19海里離れていたカリフォルニアン号でした。 カリフォルニアン号は一回タイタニック号に向けて針路変更していたのですが船長のムーア船長が氷山を恐れ、エンジンを切り電気も全て消して 近海にいないふりをしたのだった。

そして一番遠かったカルパシア号が4時間かけて救命に行ったのでした。  マウンテンプル号とカリフォルニアン号は全速力で向かえば1時間30分くらいで現場に到着できていた。

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☛ ☞  不運なタイタニック号

1909年3月31日からアメリカにあるホワイトスターライン社が世界最大の大きさと最高の豪華客船を目指して製作されたタイタニック号。 スターライン社社長のイズメイ氏(映画でも出演)。 そして約3年の月日が経ち、15,000人の人手(主にアイルランド人)、厚さ 2.5cm面積50平方mの鋼鉄の壁約2000枚、約300万個のリベットを用いて完成したタイタニック号は、全長269m高さ約50mで世界一大きい豪華客船として一躍有名になった。 そして、1912年4月1日タイタニック号は初運転をします。 しかし 1912年4月14日氷山衝突事故に合い、これが最後のタイタニックの航海となってしまったのでした。

タイタニック号は色々な不運にあっています。
1: 双眼鏡が無くなってしまった事
2: 当時、風が全く吹いてなかった事 風が吹いていれば波の動きや音などで氷山を発見できたかもしれません。
3: 救命ボートを人数分積んでなかった事
4: もう少し早く舵を切っていれば衝突はまぬがれたかもしれない事 逆に正面からぶつかっていれば沈没はしていないだろうとの事
5: 沈没したのが深夜だった為一番寒い時に沈没してしまった事
6: 当時月が出ていなかった事 月明かりで氷山を早く見つけられたかもしれません。

その結果、当時世界最悪の海難事故で処女航海の幕を閉じた。 しかし、このような真実もあった。 映画でも出ていた子、タイタニック号でコマ回しの練習をしていた子です。 あの子は自分のお気に入りにしている‘クマの人形ポーラ‘と、共にタイタニック号に乗船しました。 しかし真夜中にたたき起こされ救命胴衣をつけらされて訳の分からないまま甲板に出ました。

そして救命ボートに母とポーラと一緒に乗りました。結局その子は助かりましたが、ポーラをどこかに落としてきたらしく探しまわりました。 しかしなかなか見つからないないのであきらめようとした時に同じボートに乗り合わせた船乗りがポーラをボートで拾ったらしくそれをあの子に届けてやったそうです。 そして無事にポーラと再開を果たす事ができたそうです。

今一度、洋上に浮かぶ『宮殿・タイタニック号』の構造に触れとおこう。 船底は二重底になっており、船体も喫水線(水面)上までの高さがある防水隔壁で16の区画に区分されていた。 そのうちの2区画(船首部では4区画)に浸水しても沈没しない構造になっており、Gデッキより上の隔壁こそ手動であったが、下層デッキの隔壁は船橋(ブリッジ)からの遠隔操作で即時閉鎖できた。 各区画にも手動スイッチが設置されていた他、15cm以上の浸水時には自動的に閉鎖される機能も備わっていた。

そのためタイタニックは「不沈船」として喧伝され、現に現在から見ても本船は極めて安全な船であると言われている。 煙突は4本あるが、ボイラーと接続されているのは3本で、4本目は厨房の換気や蒸気タービンの換気のみに使用された。 したがって4本目の煙突からは航行中黒煙は排出されずダミー的なものであった。これは船の外観を重視したためである。 また、実際に「4本目の煙突はダミー、伊達であり、この4本目の煙突は、乗客が持ち込んだペットを預かるスペースとして使用されていた」という調査・証言もある。

ボイラー室は6つあり、合計29基の石炭ボイラーが設置されていた。 その後方には巨大な複式機関(3段膨張4気筒レシプロ蒸気機関)が2基あり、左右2軸のスクリューを駆動した。 レシプロ蒸気機関の更に後方には蒸気タービンが1基設置されていた。 これはレシプロ蒸気機関を通過したものの、まだ十分な圧力と温度を保った蒸気を再利用するもので、中央のスクリューを回転させ燃費を改善する目的があった。 しかし減速ギアを持たない直結タービンだったので、タービン回転数が低く、十分な出力は得られなかった。 そのため中央のスクリューは、左右のレシプロ蒸気機関で駆動されるスクリューより若干直径が小さめに造られていた。

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===== 続く =====

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