不沈客船タイタニックの悲劇=13=

08-09-1

❢❢❢ 海底に横たわる奇跡の船 ❢❢❢

長い間タイタニック号は発見されなかった。 沈没付近はわかっていたのに、発見されずにいた理由は、現場がとてつもない深い深海であったこと、海底が起伏に富んだ地形であったこと、潮の流れが激しかったことなどによる。 しかし1985年になって、ロバート・バラード博士が、最新のソナーとテレビカメラ搭載のロボット機器により、ついにこの伝説の難破船は発見されたのである=前節参照=。

海底のタイタニックは、船底を下にする恰好で沈んでいた。 船体は三番目の煙突の当たりで二つに引き裂かれており、それは海上で船体が2つに折れてそのまま沈下したことを物語っていた。 船首部分にはいまだに手スリが残っており、窓ガラスも完璧な状態で残っていた。 船内にはシャンデリアを始めコップや水差しなど多くの備品が存在し、ダイニングルームに至っては豪華な装飾で飾られた大窓が割れることもなくキラキラと輝いていたという。

その後、タイタニック号の悲劇は多くの教訓を残こすことになった。 救命ボートの数が足らず、一等客から優先的に回されたという事実は救助の在り方に問題を投げかけた。 これは生存率を見れば一目瞭然で、女性客だけとって見ても、一等は145人中140人(97%)、二等は106人中80人(75%)、三等は447人中296人(66%)となっている。 子供の生存率になると、一等は6人(100%)、二等は24人(100%)に対して、三等は57(34%)しかない。

つまり、ボートに乗り移る際、女子供を最優先と言いながら、等級順に歴然と差別待遇した事実が浮かび上がって来る。 実際、三等客は一等客が乗り終えるまでデッキに出ることも許されず、順番が来るまで閉じ込められたままであった。 この結果、ボートに乗ることが出来ずに多くの三等客が我が子を道連れに死んでいったのである。 そうしたことから、以後の救助活動では等級別に分け隔てられることはなくなった。 また、どの船にも乗客全員が乗ることのできる救命ボートを装備することも義務づけられるようになった。

さらにタイタニック号の悲劇は、自然の前に人間はあまりにも無力であることも証明した。 人間の無知とごう慢さに怒りをあらわにした神は、あえてあることを証明してみせたのであろうか。 例え大いなる夢であっても一瞬にして消え去るのだということを。

ニューファンドランド沖3650メートルの深海の水底で、今もタイタニック号は永遠の眠りについている。 真っ暗で沈黙だけが支配する闇の世界の中で、人間の奢りと無知を戒めながら、声なき鎮魂歌が今も響いている・・・

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  タイタニック号遭難沈没事件から生還した日本人がいた。 彼は、世紀の海難事件を潜り抜けた唯一の日本人として、事件現場から生還後の半生をも荒波に弄ばれるのである・・・・・・・彼の名は細野正文、ウィキペディアによれば、;

☛ ☞  細野 正文(ほその まさぶみ、(明治3年10月15日) – 昭和14年3月14日)は明治期鉄道官僚である。日本人唯一のタイタニック号乗客として知られる。 二男は交通学者で中央大学名誉教授や日本学術会議会員等を歴任した細野日出男。 ミュージシャンの細野晴臣は孫。

タイタニック号事故による誤報及び「名誉回復」
正文は1912年、第1回鉄道院在外研究員としてのロシアサンクトペテルブルク留学の帰路にてタイタニック号に日本人ではただ1人乗船していたが、タイタニック号は沈没。 その際に「他人を押しのけて救命ボート(13号ボート)に乗ったとの白人男性の「証言」を元にしたとされる誤報=誤報ではなく意図的な「虚報」であったとする意見もある=が日本国内で広まり、新聞や教科書で社会的に大きな批判を集めることとなる。

翌1913年、この事実無根の批判によって鉄道院主事を免官となり平の鉄道事務官に降格。 1925年に平の事務官のまま退職し鉄道学校勤務に転職。 1939年に死去。 享年70。 従五位勲六等を受勲・・・・・・・・。正文は一切弁明をせずその不当な非難に生涯耐えた。 弁解しなかった理由は武士道精神と考えられている。しかし死後の1981年になって正文が救助直後に残した事故の手記が発見され、映画『タイタニック』が公開された1997年に手記等の調査から人違いであることが確認されて正式に名誉回復がなされたとされた。

詳細によると1997年にタイタニックの遺品回収を手がけるRMS財団は細野の手記や他の乗客の記録とも照らし合わせた調査から、件の「白人乗客」と細野は別の救命ボートに乗っており人違いであることを確認した。手記には細野が乗り込んだ救命ボート(10号ボート)にはアルメニア人男性と女性しか乗っていなかったと記されていたものの事故当時、細野はひげをはやしていたためアルメニア人と記録された。 一方、「卑劣な日本人」と記録したとされる白人は別ボート(13号ボート)に乗っており同乗者には中国人がいたことが明らかになった。 事故一ヵ月半後に帰国した細野を読売新聞がインタビューした際の記事内容とも一致していたこともあり名誉回復がなされた。

しかし事故から時間がたちすぎている一方、名誉回復からの日が浅いために、「日本人男性が非紳士的である」といった類の中傷の題材に用いられることがあるとされた。 事実、死後にも洞爺丸事故の際にタイタニックの誤報が取り上げられ国内でこの誹謗が蒸し返された。 それらの事情から名誉回復がいまだ十分になされているとはいえないとの指摘もあった。

安藤健二による再調査

  上記の「名誉回復」が近年一般の注目を浴びたのは1997年に産経新聞1029日号夕刊でその件が報道され「外国人乗船者の手記から『卑怯な日本人』と非難されていたが、タイタニック号の情報を管理している団体が1997年に再調査して人違いとわかり、正式に名誉回復がされた」と書かれたためである。

   だが ジャーナリストの安藤健二が2006年ごろ一次情報から再調査をしたところ、1997年に判明したのは「正文は10号ボートに乗った」という事実のみであった。 またボートが13号であろうと10号であろうと「外国人から日本人が他人を押しのけて乗船したと非難された」という情報は発見されず、正文を非難した記事類は日本人が記述したものしか発見できなかった。 また正文を「恥ずべき日本人」と記述した教科書もみつからなかった。

また、正文は自身の日記によると「女子供優先」のルールを十分承知しており偶々すぐそばのボートから「2人分の空きが出来た」と声がかかったため「闇夜だから男女の区別もわからないだろうと、短銃で撃たれる覚悟で」無我夢中で甲板からボートに飛びおりており「自分がルール違反を犯している」と十分自覚していた。 その態度が、「武士道的精神に反する」として、日本国内で批判されていたのだった。  タイタニックからの「男性生還者」は非常に少なかったため、彼等は欧米人であっても、生還後、自国内で「卑怯者」とバッシングを受けている。 安藤の取材によると1997年の「産経新聞」の記事は映画『タイタニック』の公開前の話題づくりのため制作会社から持ち込まれた「美談」であったという。

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☛ ☞  タイタニック号で命拾いをした唯一の日本人=恥知らずと罵られた半生=

豪華客船タイタニック号の沈没後、ある英国人乗客が手記にこう記していた。 「一人の日本人男性が乱暴に他人を押しのけ、無理やり救命艇に乗った。」  タイタニック号に乗り合わせていた唯一の日本人乗客である細野正文氏は、当時運よく救命艇に乗り込み命拾いしたものの、生涯「卑怯な生存者」という汚名を背負い続けた人物だ。 細野氏は1870年生まれで、1912年当時日本鉄道院の主事を務めていた。 露、英での研修を終え、英国から北米へと向かうタイタニック号に乗り合わせていた。

4月14日、タイタニック号は氷山に衝突し、スミス船長は“Women and children first”(WCF)(女性と子供を優先せよ)との救命規則を宣言。 翌15日1時40分、最後の救命艇が海に降ろされる。 このとき細野氏は船員に撃ち落とされる危険を顧みずに女性と子どもでいっぱいの救命艇に女装でよじ登ったという。 本来助かるべき女性一人を差し置いて自分が乗り込んだという説もある。 こうして細野氏は力の弱い女性と子どもに混じって命拾いをした卑怯な男だと罵られることになった。 細野氏は帰国後、高官職を免官され、平の鉄道事務員に降格。 後に岩倉鉄道学校に転勤した。 1939年に世間の冷たい視線を浴びる中で他界する。

しかし、1941年にタイタニック号沈没事故にまつわる細野氏の手記が発見される。 細野氏は世間から批判されるような行動を取っていなかったことが発覚し、氏の孫が祖父の名誉回復に向けた取り組みを始める。事故当時、細野氏が乗ったのは10号救命艇で、無理やり乗り込んできたと指摘した英国乗客の救命艇は13号であった。 実は当時10号救命艇には二人分の空きがあり、上艇の順番を待っていた三等客室の乗客とともにその場にいた二等客室乗客の細野氏には優先上艇権があったのだ。 1997年、細野氏の手記は米国のタイタニック号研究財団を検証を経て事実と証明された。

1998年に日本のメディアが公開した細野氏の手記の一部には、当時救命艇の指揮員が「もう二人」と叫ぶ声がして、一等客室の男性が飛び込んだの続いて細野氏も飛び込んだとある。 あの事故で多くの人が命を落としたため、生きて帰った細野氏は、その罪悪感から帰国後誰にも反駁することをしなかったのではないかと言われている。 「中国網日本語版(チャイナネット)」2013年10月8日

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===== 続く =====

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