不沈客船タイタニックの悲劇=14=

08-10-1 08-10-2

☛ ☞  日経ビジネス コラムより

1912年4月14日の深夜。 北大西洋のニューファンドランド沖を航行していた豪華客船タイタニックが氷山に衝突し、翌日未明に沈没しました。 犠牲者の数はおよそ1500人。 産業革命によって「文明は自然を克服し得る」と信じていた西欧社会を震撼とさせる未曾有の海難事故でした。 日本人としてただ1人難に遭い、一命を取りとめたのが細野正文氏。 ミュージシャン・細野晴臣氏の祖父に当たる方です。
「雑誌」コーナーに配信中の「生還者に学ぶ窮地の決断」は、その細野氏の「手記」を元に、事故の「その時」を描き出します。 手記は『ナショナル ジオグラフィック日本版』=次節以降に記載=に掲載されたものです。 北大西洋の冷たい海に船が沈みゆく中で九死に一生を得た壮絶な場面が、カナ交じり漢文調の手記を通じてまざまざと蘇ります。

この「タイタニックの生き残り」である細野氏は、帰国後、国内でバッシングを受けることになります。 記事に以下のようにあります。  無事帰国した細野に対して、女性や子供優先の避難ルールがあったにもかかわらず、生き延びたことを非難する人もいたようだ。 しかし、細野自身はそうした声に何ら反論することなく、1939(昭和14)年3月、68歳でこの世を去った。 遭難直後に記した手記は、生前、妻に一度見せたきりで、遺品の中から息子が見つけ出すまでしまわれていたという。
タイタニック号には、乗客全員分の救命ボートが備えられていませんでした。 限られた数の救命ボートに誰が乗るか、誰が船に残るか。 ボートに乗れなければ、船が沈没すれば低水温の海で数秒と命は持たないでしょう。 「残る」という選択は「死」を意味します。 誰もが救命ボートに移って助かりたい、と思ったはずです。ですが、こうした極限において、人間の精神は奇跡のような尊厳の輝きを示すことがあるようです。 多くの成人男性の乗客は、女性や子供を優先的にボートに移し、自らは「残る」という選択をしました。

そんな中で、細野氏は生還したわけです。 そのことを快く思わなかった人もいたのでしょう。 「日本人としておめおめと生き残って恥ずかしい」と陰に陽に論難されるだけでなく「他人を押しのけて助かった」などと事実無根の誹謗も受け、事故の翌年には役職を失いました。 そのバッシングの根底には、「西欧列強に野蛮と見られたくない」という、当時の日本人が抱える劣等感と自意識があったようです。 つとに「日本人の『日本人論』好き」と言われるところですが、「西洋人からのまなざし(西洋人が日本人をどう見るか)」を借りて同胞をこき下ろすその姿勢はあまり褒められたものとも思えません。

細野氏の行動が、本当に非難されるべきものだったのか。 100年後の今、それを精緻に検証することはできません。 ただ、彼が遭難直後に記した手記は、それを知るヒントを私たちに与えてくれそうです。 記事中には、原文に忠実に漢字カナ交じり文語調の手記をそのまま翻刻したものを引用しています。 そのままでは読みにくいという方のために、現代語に読みやすく改めた大意を以下に掲載します。 原文と併せてお読みいただければ幸いです。

08-10-3

*   *   *

 天気は快晴、午前七時起床、八時朝食、二時昼食、六時夕食、その間読書をしたり運動をしたり、あるいは自室で寝転がったりして日を送る。  やや眠気をもよおし、夢うつつの時、船が何かに付き当たったようだったが別段気に止めなかった。 間もなく船は停止した。 おかしいとは思ったが、大事件が起きたとは思わず、いつも通り寝ていたが、11時頃Stewardが戸を叩くので開いてみると、「起きて甲板に行け」と言う。「何事が起こったのか」と聞いたが答えない。 救命浮き具を投げて置いていって、急いで去って行った。 甚だおかしいとすぐに服を着たが、急いだので白シャツや襟などを付けず、大急ぎで服を着て甲板に駆け上がって見れば、船客は右往左往とさまよって、皆、救命浮き具を付けている。 いぶかしんで(混乱の)理由を聞いたが誰も知らない。 甲板で水夫は「三等デッキに下りろ」と言う。 言われるがままに下りたが多くの人が下りる様子がないため、また上がると咎められる。(自分が)二等(客室の)船客であると伝えて(甲板に)上がることを許され、急いで自室に帰って財布だけを取って、時計、各国金貨、目鏡などを取るのを忘れ、毛布を掴んで大急ぎで最上甲板に上がる途中、水夫は「下甲板にいろ」と言われたが、聞こえない風をして上甲板に来たら、(救命)ボートを下ろしつつある。

(自分の)命も今日で終わることを覚悟して、慌てず、日本人の恥になるまじきと心掛けつつ、機会を待っていた。 この間、船上から危機を報せる信号の花火を絶えず上げており、その色は青く、その音はすさまじかった。 何となく物悲しさを感じた。 船客はさすがに一人として叫ぶ者はなく、皆落ち着いていたことは感心すべきことだと思った。 ボートには婦人たちを優先的に乗せた。その数が多かったため、右舷のボート4隻は婦人だけで満員になった。 その間、男子も乗ろうと焦る者も多数いたが、船員は拒んで短銃を向けた。この時船は45度に傾きつつあった。 ボートが順次下りて最後のボートも(乗客を)乗せ終え、既に下りること数尺、その時に指揮員が人数を数へ「もう2人」と叫ぶと、その声とともに1人の男性が飛び込んだ。 私はもはや船と運命を共にするほかなく最愛の妻子を見ることもできないと覚悟して悲しみに耽っていたが、まだ1人が飛ぶのを見て、この機しかないと短銃に打たれる覚悟で数尺の下にある船に飛び込んだ。 幸いなことに、指揮者はほかの事に取り掛かっていて深く注意を払っていなかったし、しかも暗いために男女の区別もつかなかったのか、飛び込むと共にボートはするすると下りて海に浮んだ。

そそり立つような大船が、異常なほどの音を立ててその姿を海に沈めた今、目前にあったのを見たのに、もう陰も形もない。 何と有為転変の世の中であることか。 沈んだ後、溺死しそうになっている人々の叫び声が実にすさまじく、ボートの中では、その夫や父親を案じている婦人たちの泣く声もまた盛んで、ああ、自分もどうなることかと思う時は気も心も沈んだ心地だった。
(海上を救命ボートで)漂っていると午前6時になった。 すると遠方に煙を吐いてやって来る船を見た。さては助かるのかと思ってやや安堵した。 7時に船は遭難地点に完全に到着して停止した。 それから順番にこの船に救い上げられた。 私の(乗った)ボートは最後だった。 例によって婦人たちは最優先で私は最後の最後だった。 船に上がり終えたのはちょうど8時。 ここでほっと一息するとともに感謝の気持ちがむらむらと湧きあがり、滂沱の涙を落とした。

2時に夕、昼食。 やや心も落ち着くと、おもむろに持ってくるのを忘れた品が惜しい気持ちが出て、特にせっかく苦心して残しておいた各国の金貨その他約70円ほど、選別の時計、土産の時計、新調した洋服、帽子、シャツ、記念の名簿に友人の写真、インク入れなど、とても惜しい心持がして堪らなかった。 中でも留学中に書いたもの、日記を失ったのは取り返しが付かない損失だ。 人の欲も不思議なもので、今までは生命の安否に心が奪われていたためそれほどまでに思わなかったものの、今は生命もひとまず安全になった見込みだから、それともに品物を惜しむ気持ちが出てきた。
寝室は例によって婦人に先に入ってもらうので、私たちに部屋が割り当てられるはずもなく、Smoking roomで、船の毛布2枚を身に付けたまま靴を穿いて眠った。 不思議にも悪夢にもうなされることなくよく眠れた。
午後10時、昨日のように食堂で眠ろうとすると、婦人のみとのことだったので男性は許されず、やむをえず喫煙室に来て見れば満員でとても寝る所がないので椅子に座ったままうとうとして一夜を明かした。 実につらい航海だった。 (池田信太朗)

08-10-4

ジオグラの資料より・・・・・・・

タイタニック号に乗っていた唯一の日本人、細野正文。万死に一生を得た彼は、救助された船の上で、自分の身の上に起きていることを書き残した。タイタニックの船室備え付けの便箋に、細かい文字で書き綴られた手記からは、壮絶な事故現場の生々しい様子とともに、日本人として恥ずかしくない行動を心がけつつ、生還への望みを懸けて下した細野の決断が記されている。世紀の遭難事故を生き延びた日本人の体験を誌上で再現する。

ジェームズ・キャメロンの映画の大ヒットもあって、タイタニック号の遭難事故については、多くの日本人が知っていることでしょう。タイタニックの船首で、主人公の二人が手を広げて、風を受けるシーンは今でもよく目にします。しかし、あの悲劇の豪華客船に日本人が乗っていたことを知っている人はどれほどいるでしょうか。

 当時、鉄道院の高級官僚だった細野正文さんがその人です。私は彼の存在をなんとなく知っていました。音楽家で、YMOのメンバーである細野晴臣さんのお祖父様だということで、マスコミで取り上げられることがあったからでしょう。しかし、正文さんが救助された船の上で、自分の身の上に起こっていることを書き残していたことは、今回の取材をするまで知りませんでした。その遭難手記を読んでみると、遭難当時の騒然とした現場の様子が詳細に記されている点に驚くとともに、正文さんが日本人として恥ずかしくない行動を取ろうと心がけながらも、生き残る望みを最後まで諦めず、最後の最後で救命ボートに飛び乗ったことに、人間の生への強い思いを感じました。

しかし、帰国後、生還した正文さんを非難する人もいたようです。婦人や子どもたちを優先的に避難させるルールがあるにもかかわらず、生き残ったことを卑怯だと……。はじめ私は、あの惨劇を生き抜いた人がなぜ、こうした非難や中傷を受けなければならないのか理解できませんでした。当時の新聞などを読んでいくと、その疑問が少しずつ解けていきました。タイタニック遭難から3カ月半の後、日本では明治天皇が崩御しました。その大喪が執り行われた夜、日露戦争の英雄、乃木希典は夫人と共に自刃します。彼の死は殉死として概ね肯定的に受け止められ、武士道の体現者として称えられさえしました。そんな時代のなか、正文さんがとった態度を潔いと思わなかった人もいたのでしょう。

当の正文さんはそうした非難に反論することはありませんでした。遭難直後に記した手記も公表することはなかったといいます。他人が何と言おうと、あの夜、自分が体験したことを理解することは出来ないと感じていたのかもしれません。生前、正文さんが家族に笑いながら語ったという言葉が印象に残りました。「俺が今ここにこうして生きているんだから、いいじゃないか」。遭難の辛い体験や帰国後の非難などをすべて胸にしまい、家族と共にいられることの幸せを感じていたのでしょう。
·   (ナショナルジオグラフィック日本版, 大塚 茂夫 日本版編集長)

08-10-5

混乱 4.14~15(4月14日~15日)
天気快晴、午前七時起床、八時朝食、二時昼食、六時夕食、其間読書シタリ運動シタリ或ハ自室ニテ平臥ナドシテ日ヲ送ル。夜十時床ニ入リ読書シナガラ稍眠ヲ催フシ夢現ノ時船ガ何カニ突キ当リタル心地セルモ別段気ニ止メズ、間モナク船停止ス。
オカシキト思ヒナガラ大事件ノ発生ナルトハ、思ハズ平気ニ眠リシニ、十一時頃Stewardガ戸ヲ叩クニヨリ開キ見レバ起キテ甲板ニ行ケト云フ。何事ガ起リシヤト問フモ答ヘズ、ライフブイヲ投ゲオキテ急ギ去ル。甚怪シト直ニ服ヲツケシモ急ギノ事故白シャツ、カラ等ヲツケズ オ大急ギニ衣ヲ付ケテ甲板ニカケ上ガリ見レバ船客右往左往サマヨヒ皆ライフブイヲツケタリ。
怪ミテ故ヲ問フモ誰モ知ラズ、甲板ニテ水夫ハ三等デキニ下リヨト云フ。云フガ儘ニ下リシモ多数ノ人ガ下リル様子ナキ故再ビ上ルト咎ム。即二等船客ナル旨ヲ述ベテ許サレ、急ギ自室ニ帰リテ銭入丈ヲ取リ時計、各国金貨、眼鏡等ヲ取ルヲ忘レ毛布ヲツカミ大至急ニ最上甲板ニ上ル途中水夫ハ下甲板ニ居レト云ヒシモ聞カザル風ヲシテ上甲板ニ至レバボートヲ下ロシツツアリ。
前ニ多数ノ男女群集ス。是ヲ見シ時ハ大事件ノ発生セシコト疑ナキヲ知リ、生命モ本日ニテ終ルコトト覚悟シ別ニアワテズ、日本人ノ恥ニナルマジキト心掛ケツツ尚機会ヲ待チツツアリ。此間船上ヨリハ危急信号ノ花火ヲ絶エズ上ゲツツアリ、其色青ク其声スゴシ。
何トナク凄愴ヲ感ズ。船客ハ流石ニ一人トシテ叫ブモノモナク皆落付キ居レルハ感ズベシ。ボートニハ婦人連ヲ最先ニ乗ス。其数多キ故右舷ノボート四隻ハ婦人丈ニテ満員ニ形ナリ。其間男子モ乗ラントアセルモノ多数ナリシモ、船員之ヲ拒ミ短銃ヲ擬ス。此時船ハ四十五度ニ傾キツツアリ。

覚悟
是後ボートモ乗セ終リ既ニ下ルコト数尺、時ニ指揮員人数ヲ数ヘ今二人ト叫ブ其声ト共ニ一男子飛ビ込ム。余ハ最早船ト運命ヲ共ニスルノ外ナク最愛ノ妻子ヲ見ルコトモ出来ザルコトカト覚悟シツツ凄想ノ思ヒニ耽リシニ今一人ノ飛ブヲ見テ責メテ此ノ機ニテモト短銃モ打ルル覚悟ニテ数尺ノ下ナル船ニ飛ビ込ム。
幸ナル哉、指揮者他ノ事ニ取紛レ深ク注意ヲ拂ハズ且暗キ故男女ノ様子モ分ラザリシナランカ、飛込ムト共ニボートハスルスルト下リテ海ニ浮ブ。十数歩ヲ漕ギ出シ船ヲ顧ミレバ多数ノ船客尚甲板ニ徘徊シツツアルヲ見ル。ボート内ニハ婦人連ノ泣声小児ノ叫声盛ニシテ物悲シ。蓋シボートニ乗ルマデハ命ノミヲ気ニカケシ故泣ク暇ナカリシナラン。
船ハ尚信号ヲ打上ゲツツアリ。三段ノ甲板ハ既ニ水ニ没シ六十度位ノ傾斜ヲナスヲ見ル。一端乗リシボートヨリ他ノボートニ一同移サル。是レ此ク人員ヲツメテ一隻丈ヲ空ケ之ニ人ヲ乗セントテナランモ、仔細ニ様子ヲ見レバ此レ船員等ガ自己ノ仲間ヲ助ケン目的ニテ船客ヲ助ケン為ニハ非ザルガ如ク、其証トシテ割合ニ多数ノ船員救助セラレタル様子ナリ。
小生等ノボートニハ男子ハ僅カニ二人ニテ一人ハアルメニア人一人ハ小生ナリ。共ニ漕グ手伝ヒヲサセラレ閉口セリ。海ハ幸ニ波高カラズ、天気モ晴朗ニテ実ニ幸ナリキ。此時ニ当リ船上ニ在ル船客ハ逃ルベキ道ナキヲ以テ声ヲ上ゲテ救ヲ呼ブ様スサマジク、船ハト見レバ上甲板丈水面ニ表ハレツツアルノミ、実ニスゴキコト云ハン方ナシ。

沈没
彼是一時近キ頃ト思フ時分スサマジキ爆声起ルコト三四回ナルヤト思フ間モナク屹然タル大船ハ非常ノ音ヲナシテ全ク其姿ヲ没シ今、目前ニアリト見シモノモ影モナシ、実ニ有為転変ノ世ノ中哉。沈ミシ後ニハ溺死セントシツツアル人々ノ叫声実ニモノスゴク、ボート内ニハ其夫父等ヲ案ジツツアル婦人連ノ泣ク声亦盛ニテ鳴呼自分モ何ウナルコトカト思フ時ハ気モ心モ沈ミシ心地ナリシ。
此ヨリ後ハ船内物品ノ多数漂フ中ヲアチコチ徘徊シツツ運命ノ如何ニ定マルカヲ案ジツツ心細キ思ヲナスノミナリ。午前三時頃ヨリ波漸クタカクナリ、ボートノ動揺激シク嘔吐ヲ催スモノ少カラズ。小生ハ幸ニ三四日馴レシ為カ心地サホドニモアラザリキ。
四時頃東ノ方白ミ四面見ユルト共ニ種々ノ物品ノ浮ベル様ヨク見ヘ更ニ凄キ心地ヲ催セルガ、此時マデモ叫ベル人声ハ漸ク消ヘテ聞ヘザルハ恐ラク寒気ノ為ニ弱リテ水底ニ沈ミ行キシナラン。之ヲ見テ果シテ何時救助セラルニヤアラン、若一日モ此ノ儘ニアルナラバ飢モ来ルベク寒気ニモ襲ハレ、之ガ為ニモ命ハ危カラント案ジツツアリシガ、誰云フトナク遠クニ船ハ見ユルト云フモ素ヨリ見ルコト能ハズ。
此クシテ漂フコト六時マデニ至リ果シテ遠方ニ船ノ煙ヲ吐キツツ来ルヲ見ル。偖テハ助カルコトカト思ヒ稍安堵ノ思ヲナス。七時船全ク遭難地点ニ着シ停止ス。是ヨリ漸次本船ニ救ヒ上ゲラル。小生ノボートハ最後ナリキ。例ニヨリテ婦人連最先ニテ小生ハ最後ノ最後ナリキ。

08-10-6

救出
全ク本船ニ上リシ時ハ正ニ八時。ココニテホット一息スルト共ニ感謝ノ念ムラムラト起リテ涙滂沱タリ。此船ハCarpathiaト云フ14,000屯計リノ船ニテ可ナリ大キク、伊太利ノネープルスニ行キツツアルモノトゾ。後ニテ聞ケバ100哩バカリ離レタル所ニテ余等乗船ノ無線通信ニ接シ急ギ救援ニ来リタルナリ。救助セラレタルハ本Carpathiaニテ700人余ナル由ニテ船内充満セリ。七時頃Californiaト称スル船モ来リ助ケ漂流セル人70人位ヲ救ヒシトノコト、総船ノ員数約三千人アリト云ヘバ、全ク溺死セルハ二千人余ナルベキカ、不幸中ノ幸ナリシ。

今ノ船ハTitanicニ比スル時ハ其屯数モ少ク船室モ狭ク且キタナシ。殊ニ多数ノ人員ナルヲ以テ頗ブル混雑シ小生ガ唯一ノ物品ナル毛布ノ如キ何テニ行キシヤ更ニ行衛知レズ、只一足丈小生ヨリ先ニ上ゲシニ過ギザルニ此ノ如シ、以テ混雑ノ様子モ察スルニ足ル。取敢ヘズコーヒーヲ給セラレ、間モナク朝食ヲ与ヘラル、料理劣等ナリ。
偖船上ヨリ四方ヲ見ルト、一方ハ白ク氷リテ見エ、處々白帆ノ如キ船カト見エルハ例ノ氷山ナリ。此ノ氷山コソ余等ノ乗船ノ沈没セル原因ニシテ、先ニ衝突ノ心地セシハ此ノ氷山ニ當リシナリトゾ。此ニテ大穴ガ開キ海水ノ侵入盛ンニシテ、遂ニ二時間ノ後二百万磅ノ大船モ水底ニ沈ムニ至リシナリ。
九時船動キ始ム。氷山多数ニテ再ビ衝キ當リハセズヤト心配スルモ臆シタル為ナラン。沖遙カニ鯨ノ汐ヲ吹クヲ見ル、其様中々面白シ。二時夕(昼)食稍心モ落付ト共ニ徐ニ取リ忘レタル品ノ惜シキ心出デ、殊ニ折角苦心シテ残シ置キシ各国ノ金貨其額約70円位ノモノ、餞別ノ時計、及土産ノ時計、新調ノ洋服、ボーシ、シャツ、記念ノ氏名帖ニ友人ノ写真、インキ入等甚ダ惜シキ心地シテタマラズ、中就留学中ノ筆記モノ、日記ヲ失ヒシハ取返ヘシノツカザル損害ナリ。人ノ欲モ不思議ノモノニテ今迄ハ生命ノ安危ニノミ心ヲ取ラレ居リシ故左マデニ思ハザリシモ、今ハ生命モ一先安全ノ見込ミ付クト共ニ品物ヲ惜ム心地セルナリ。
午後六時夕食、船ハ西ニ向ツテ走リツツアリ。是レ多数救助者ヲ一先届ケル為メ船ハ態々紐育ニ引返スナリト云フ有ガタキ次第ナリ。最初ハ伊太利マデ行カネバナラヌコトカト思ヒシニ是亦天佑ナルベシ。日暮ル。素ヨリ寝室ハ例ノ婦人ニ先取セラルコト故小生等ノ室ノアルベキ理ナクSmoking roomニ船ノ毛布二枚ニテ衣タママ靴ヲ穿イテ眠リタルナリ。不思議ニモ悪夢ニモ犯サレザシリ。

帰途
16(4月16日)
午前六時目覚ム。八時朝食、食事ススマズ。非常ノ霧ニテ船ハ三分間位毎ニ気筒ヲ鳴シテ前途ヲ警戒シツツ進行セリ。何トナク危ブナキ心地ス。午後ヨリ風大ニ起リ波高ク船ノ動揺盛ニシテ心地悪ルシ。食事ハ三度共食セシモ料理モマズク、且船暈・気疲等モアツテ更ニ食欲ヲ発セズ。
此ノ日失ヒタル毛布ヲ発見セラレ大ニ安堵セリ。此マデ自ラモ其トナクサガシ歩キ且事務局ニモ通知置キ、一人ノStewardニハ賞ヲカケテ頼ミ置キシニ、其男ノ知ラセニテ行キ見レバ紛失品多数カケアル中ニ余ノ毛布モアリシナリ。即チ謝礼トシテ2S.6dヲ与フ。
此ノ夜ハSmoking Room占領セル場所ヲ他ノ横着人ニ横領セラレタル為別室ノ食堂ニ行キ布ノクシヨンヲ床上ニ敷キ其ノ上ニ毛布ヲ延ベ自己ノ毛布ヲカケツツ眠ル。勿衣タル儘ナリ。兎ニ角ニモ苦シキ旅行ナリ。

17(4月17日)
夜中劇シキ雷鳴ヲ聞クコト数回、初メハ何事カト人々ト共ニ飛ビ起キタル位ナリ。午前六時起床、風雨大霧ナリ。船汽筒ヲ鳴ラスコト前日ノ如シ。前日ハ午後二至リ霧晴レシモ本日ハ終日濃霧ナリ。但雨丈ハ一時止ミタリ寒シ。
十五日ニ見タル氷海ハ十六日以後ハ見ヘズ、午後十時前日ト同ジ様子ニテ眠ル。當然ノ航海ナラバ本日ハ紐育ニ着シタル筈ナルモ不運ノコトナリシ。本船は初十八日着の予定ナリシモ噺ニヨレバ十九日ノ朝着スルナラントノコト。
此ノ日遭難者ノ点呼・身元書キ取リノコトアリ、一ノ標札ヲモラウ。午後十時昨日ノ如ク食堂ニテ眠ラントセシニ婦人ノミトノコトニテ男子ヲ許サズ、不得巳喫煙室ニ来リ見レバ満員ニテ迚モ寝ル所ナシ。即椅子ニ掛ケタママ半眠中ニ一夜ヲ明カス。実ニツラキ航海ナリシ。

18(4月18日)
霧・後雨・寒シ。霧ニテ四面模糊タリ。午前五時既ニ半眠中ヨリ覚メ起キ出デテ甲板上ノ腰掛ノ上ニ眠ル、而モ眠ラレズ、即起キ出ヅ。面ヲ洗ヒ甲板上ヲ運動ス。喫煙室ニテハ衆人ノ為ニカラカワレ実ニ閉口ヘリ。六デモナキ水夫連中ノ事故何ヲ云フモ馬耳東風ニ聞キ流セリ。
八時朝食、食後鬚ヲソル、一志ナリ。一寸眠ル。十二時昼食、食後ハナスコトモナク暮ス。怠屈此ノ上ナシ。喫煙室ニテ稍自己ノ身ノ上ヲ話シ彼等bull dogヲシテ少シハ敬意ヲ拂ハシムル様ニ至レリ。十五日ヨリ此ノ日マデ費ス所六志半ナリ。其前ニ船中ニテ費セシハ六志計リナリキ。
<手記終わり>

08-10-7

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===== 続く =====

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