杉原千畝が専行、「命のビザ」=01=

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 杉原 千畝(すぎはら ちうね、1900年(明治33年)1月1日- 1986年(昭和61年)7月31日)は、日本の官僚、外交官。 第二次世界大戦中中、リトアニアカウナス領事館に赴任していた杉原は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情。 外務省からの訓令に反して、大量のビザ(通過査証)を発給し、およそ6,000人にのぼる避難民を救ったことで知られる。 その避難民の多くが、ユダヤ系であった。 海外では、「日本のシンドラー」などと呼ばれることがある。

❢❢❢ 外交官になるまで ❢❢❢

明治33年の正月元旦、杉原は岐阜県加茂郡八百津町に生まれた。 「千畝」という名前は、人名としては極めてユニークな名前だが、税務署の職員だった父の赴任地では千枚田や棚田を意味する「千畝」という地名が実際に存在し、杉原の故郷付近の景観から連想した命名であろうという。 千畝の家系は、元々は士族の流れをくむ「岩井」姓だったが、絶家となった名門・杉原清家を再興するために、父の代から杉原姓に変わったという。

明治45年/1912年、古渡尋常小学校(現・名古屋市立平和小学校)を全甲(現在の「オール5」)の成績で卒業[3]後、作家の江戸川乱歩と入れ違いに旧制愛知県立第五中学(現・愛知県立瑞陵高等学校)に入学。 同校卒業後、当時日本統治下の京城に赴任していた父は、千畝が京城医学専門学校(現・ソウル大学校医科大学)に進学して医師になることを望んでいた。 千畝の甥にあたる杉原直樹によれば、千畝の父の名は、初め「三五郎」であったが、自分の命を救ってくれた杉原纐纈(こうけつ)という医師の名前から「好水」(こうすい)という音韻の類似した名前に改名し、これを「よしみ」と読んだという。 父・好水が医師という職業を千畝に強く薦めたのにはこうした背景がある。

しかし、医者になるのが嫌だった千畝は、京城医専の試験では「白紙答案を提出」して「弁当だけ食べて帰宅」した。 当初、英語を学び「英語の教師になるつもりだった」千畝は、父の意に反して、大正7年/1918年4月に早稲田大学高等師範部英語科(現・早稲田大学教育学部英語英文学科)の予科に入学。 「ペンの先に小さなインク壺を紐で下げて、耳にはさんで」登校していた逸話が残る。

千畝自身の説明では、「破れた紋付羽織にノート二三冊を懐にねじ込んで、ペンを帽子に挟んで豪傑然と肩で風を切って歩くのが何より愉快」と多少修正されるが、バンカラな校風で知られた昔の早稲田大学でも珍しい奇天烈な格好で通学していた。 独特のペン携帯の流儀から、学友に「変わった人間/ドイツ語で誇称する“Spinner”」と笑われても、「これならどこででも書くことができる。合理的だよ」と平然としていたという。 しかし、実際は授業中ほとんどノートをとらず、講義内容をすべて暗記していた。

父の意に反した進学だったので、仕送りもなくたちまち千畝は生活苦に陥った。 そこで早朝の牛乳配達のアルバイトを始めたが、それで学費と生活費をまかなうことはできなかった。 ある日、千畝は図書館で偶然目にした地方紙の掲示(大正8年5月23日付の「官報」第2039号)により、外務省留学生試験の存在を知る。受験資格は旧制中学卒業以上の満18歳から25歳の者であったが、研究社の受験雑誌『受驗と學生』(大正9年4月号)に掲載された千畝自身の受験体験記によると、法学・経済・国際法から外国語二ヵ国語という具合に旧制中学の学修内容とはかけ離れたものであり、実際は千畝のような大学在籍者や旧制高校修了者以外の合格は難しいものであった。

千畝は大学の図書館にこもり、連日「ロンドンタイムズデイリーメールの両紙を初め、米国発行の数雑誌を片端から全速力で閲覧」するなど猛勉強の末、「日支両国の将来」に関する論述や「英国下院に於ける外務次官ハームウォーズ紙の独軍撤退に関する演説」の英文和訳等の難問を制して合格を勝ち取った。

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 大正8年/1919年10月に日露協会学校(後のハルビン学院)に入学。 11月には早稲田大学を中退し、外務省の官費留学生として中華民国のハルビンに派遣され、ロシア語を学ぶ。 この官費留学生の募集で、英独仏語の講習生募集は行われなかった。 ロシア語選択は当初の千畝の選択ではなく、今後のロシア語の重要性を説く試験監督官の勧めで決めたものである。 学生の過半数は、外務省や満鉄、あるいは出身県の給費留学生であった。 当時の千畝は、三省堂から刊行されていた「コンサイスの露和辞典を二つに割って左右のポケットに一つずつ入れ、寸暇を惜しんで単語を一ページずつ暗記しては破り捨てていく」といった特訓を自分に課していたという。

大正9年/1920年12月から大正11年3月まで朝鮮に駐屯の陸軍歩兵第79連隊に入営(一年志願兵)。最終階級は陸軍少尉。 大正12年/1923年3月、日露協会学校特修科修了。 特にロシア語は非常に堪能で、満州里領事代理の考査では、ロシア語の総合点は100点満点の90点。 「一、二年前の卒業任官の留学生と比較するも遜色なし。むしろ正確優秀」という折り紙付きの評価を受け、生徒から教員として教える方に転じた。

昭和5年/1930年にハルビン学院を卒業する佐藤四郎(哈爾濱学院同窓会会長)は、「ドブラエ・ウートラ」(おはよう)と一言挨拶すると、複写版刷りのソ連の新聞記事を生徒たちに配布して流暢なロシア語で読み上げ解説する、青年教師・千畝を回顧している。 母校の教師として、千畝は、ロシア語文法・会話・読解、ソ連の政治・経済及び時事情勢などの講義を担当した。 佐藤は、「ロシア語の力は、日本人講師でずば抜けていた」と証言している。

大正13年/1924年)に外務省書記生として採用され、日露協会学校、ハルビン大使館二等通訳官などを経て、昭和7年/1932年)に満洲国外交部事務官に転じた。 大正15年/1926年、六百頁余にわたる『ソヴィエト聯邦國民經濟大觀』を書き上げ、「本書は大正十五年十二月、在哈爾濱帝國總領事館、杉原書記正の編纂に係はる。執務上の參考に資すること多大なるを認め、これを剞劂に付す」=現代語訳 ; この本は、大正15年(1926年)12月、ハルビンの日本総領事館の杉原書記官が書き上げたもので、仕事をする上で大いに役立つと思いますので、これを出版します= という高い評価を外務省から受け、26歳の若さにして、ロシア問題のエキスパートとして頭角をあらわす。

昭和7年/1932年、3月に満洲国の建国が宣言され、ハルビンの日本総領事館にいた千畝は、上司の大橋忠一総領事の要請で、満洲国政府の外交部に出向。 翌昭和8年/1930年、満洲国外交部では政務局ロシア科長兼計画科長としてソ連との北満洲鉄道(東清鉄道)譲渡交渉を担当。 鉄道及び付帯施設の周到な調査をソ連側に提示して、ソ連側当初要求額の6億2,500万円を1億4,000万円にまで値下げさせた。 ソ連側の提示額は、当時の日本の国家予算の一割強に値するものであり、杉原による有利な譲渡協定の締結は大きな外交的勝利であった。

外務省人事課で作成した文書には、杉原に関して、「外務省書記生たりしか滿州國成立と共に仝國外交部に入り政務司俄國課長として北鐵譲渡交渉に有力なる働をなせり」という記述が見られ、注目されている。 ところが、日本外交きっての「ロシア通」という評価を得てまもなく、昭和10年/1935年には満洲国外交部を退官。 満洲赴任時代、大正13年/1924年)に白系ロシア人のクラウディア・セミョーノヴナ・アポロノワと結婚していたが、昭和10年/1935年に離婚。 この在満の時期に、千畝は正教会の洗礼を受けていた。 正教徒としての洗礼名(聖名)は「パヴロフ・セルゲイヴィッチ」、つまりパウェル(パウロ)である。

この受洗は、結婚に際してにわかに思いついたことではなく、早稲田大学の学生時代、千畝は、後の早稲田教会となる早稲田奉仕園の信交協会に一時期属しており、満洲に赴任する前にすでにキリスト教と出会っていた。  この奉仕園の前身は「友愛学舎」と呼ばれるもので、バプテスト派の宣教師ハリー・バクスター・ベニンホフが大隈重信の要請を受けて設立したものである。  友愛学舎の舎章は、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネによる福音書15章13節)である。

このハルビン在職期に杉原は、有名なシモン・カスペ殺害事件などユダヤ人や中国人の富豪の誘拐・殺害事件を身近で体験することになった。 これらの事件の背後には、関東軍に後援された、白系ロシア人のファシスト組織があった。  杉原は、破格の金銭的条件で、関東軍の橋本欣五郎から間諜になるよう強要されたが、これを拒否。 千畝自身の言葉によれば、「驕慢、無責任、出世主義、一匹狼の年若い職業軍人の充満する満洲国への出向三年の宮仕えが、ホトホト厭」になって外交部を辞任した。

かつてリットン調査団へのフランス語の反駁文を起草し、日本の大陸進出に疑問を持っていなかった千畝は、この頃から「日本の軍国主義」を冷ややかな目で見るようになる。 杉原手記には、「当時の日本では、既に軍人が各所に進出して横暴を極めていたのであります。私は元々こうした軍人のやり方には批判的であり、職業軍人に利用されることは不本意ではあったが、日本の軍国主義の陰りは、その後のヨーロッパ勤務にもついて回りました」と、千畝にはまれな激しい言葉が見られる。

千畝の拒絶に対し、関東軍は、前妻クラウディアが「ソ連側のスパイである」という風説を流布し、これが離婚の決定的理由になった。 満洲国は建前上は独立国だったが、実質上の支配者は関東軍だったので、関東軍からの要請を断り同時に満洲国の官吏として勤務することは、事実上不可能だったのである。

満洲時代の蓄えは、離婚の際に前妻クラウディアとその一族に渡したため、ハルビンに渡った時と同じように、千畝はまた無一文になった。 そこで、弟が協力して池袋に安い下宿先を見つけてくれた。 帰国後の千畝は、知人の妹である菊池幸子と結婚し、日本の外務省に復帰するが、赤貧の杉原夫妻は、結婚式を挙げるどころか、記念写真一枚撮る余裕さえなかった。

「杉原手記」のなかで、「この国の内幕が分かってきました。若い職業軍人が狭い了見で事を運び、無理強いしているのを見ていやになった」と、千畝は述べている。 ソ連と関東軍の双方から忌避された千畝は、満洲国外交部を辞めた理由を尋ねられた際、関東軍の横暴に対する憤慨から、「日本人は中国人に対してひどい扱いをしている。 同じ人間だと思っていない。 それが、がまんできなかったんだ」と幸子夫人に答えている。

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動画 ; 日本のシンドラー 杉原千畝物語 六千人の命のビザ
https://www.youtube.com/watch?v=6YoB-_oRw-U&feature=player_embedded

前節へ移行 ; https://thubokou.wordpress.com/2015/08/14/

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