杉原千畝が専行、「命のビザ」=05=

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❢❢❢ 極貧生活が招いたヒットラーの「最終解決」 ❢❢❢

1936年、モスクワ大使館への赴任の辞令があったが、ソ連は千畝のビザの発行を拒否。 外交官の入国ビザが拒否されるということは、異例のことであり、北満鉄道譲渡交渉で見せた千畝の手腕をソ連側が警戒したためとも推察されている。 ソ連への赴任が不可能となったため、翌年、フィンランドのヘルシンキの日本大使館への赴任が発令された。 杉原一家の10年にもわたる海外勤務の始まりだった。 2年後の1939年、リトアニアの首都カウナスの日本領事館領事代理に任命されるのだが・・・・・。

1937年、フィンランドはヘルシンキにある公使館二等書記官として、杉原千畝は赴任した。 後に代理公使に任命された千畝は、ヘルシンキで書記官として 比較的穏やかな日々を送っていた。 フィンランド着任の翌年、次男・千暁が誕生。 晩餐会などの華やかな外交行事が行われた大時代の外交最前線、幸子夫人もダンスを習い、着物姿でステップを見事に踏んでいたという。 しかし、運命の夏はすぐ傍まで来ていた。

39年7月20日、千畝はリトアニアの当時の首都カウナスに日本領事館開設を命じられた。 総領事として、単独で業務に当たるような辞令を受けた。同年、8月28日 彼は直ちにリトアニアに入国する。わずかその4ッ日後にナチス・ドイツがポーランドに侵攻することに成るとは、一介の外交官である千畝に予想できるはずが無かった。いや、世界中で予測できたのはヒットラーだけでらったろう・・・・・・・。

1889年に下級官吏の子としてオーストリアでうまれたヒトラー(Adolf Hitler)の生涯について多くの著作が刊行されているが、若きヒトラーがなぜ過激な思想を抱くようになったか、また その過激思想を実践・強要したなかは、次のような分析が一般的なようだ。

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  ヒトラーが幼い頃に母親と通った質屋の主人がユダヤ人であり、その主人がヒトラー親子の品を安値でしか買い取ってくれず、そのためヒトラーはユダヤ人に対して不信感を抱くようになったという俗説もあるが、父の恩給を受給していたヒトラー一家が経済的に困窮していた事実はない。 しかし、十代で両親を亡くし、18歳で独り立ちを余儀なくされたヒットラーは、一時はホームレスに落ちぶれ極貧生活を味わう。 下級の官吏とは言え、中産階級の出身者としての誇りを抱いていただけに、この辛く 屈辱的な日々の中で 若きヒットラーは異常なまでの怒りに震え、それをぶつける対象を求めていた。 金融業などで豊かな暮らしを手にいれ、仲間内で協賛組織を持つユダヤ人の姿が諸悪の根源として 目に映り、 彼らの存在がヒトラーの生理的な憎悪と成って行った。

やがて、 ヒトラーは大ドイツ主義、徹底した反ユダヤ主義に傾注して行く。 ヒットラーの思想は、第一次世界大戦の敗北により精神的にも経済的にも苦境に追いやられたドイツ国民の熱狂的支持を獲得していく。 1933年には彼が首相の座に就くという事態が出現した。 民主主義によって独裁者が誕生すると言うパラドックスが起こった。 この時、ヒトラーのユダヤ人に対する憎悪は通徹しており、次のような事を本気で考えていたとされている。

ヒトラー自身も言っていたように、ウィーン生活を送る1910年夏ごろに反ユダヤ主義的思想を固めたと見られている。 ウィーン時代の友人にユダヤ人がいたとされている。 ただ、その友人と金銭トラブルがあったようで、このことは警察にも記録されていることから、このことがヒトラーに大きな影響を与えたという説を唱える者もある。 また、ヒトラーの友人であったクビツェクはウィーンで同居していた頃に、すでに反ユダヤ的思想を持っていたと証言している。 いずれにせよ、入党後の1920年8月23日には『ホーフブロイハウス』で「ユダヤ人は寄生動物であり、彼らを殺す以外にはその被害から逃れる方法はない」と演説するほどの確固たる反ユダヤ主義者となっていた。 一方でユダヤ人のブロニスラフ・フーベルマンアルトゥル・シュナーベルのレコードを所持していたが。

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  ヒトラーは、自らの国を建設する事が出来ないがゆえに 結果として 国境制覇を狙い、住み着いた国々で 他の人々が労働によって得たものを搾取する寄生的人種のユダヤ人との「世界戦争」に打ち勝つために ドイツは「最終(全面)解決」を実現させる・・・・・・ベルリンの執務室で遺書をタイプした後の午前2時、長年の恋人エヴァ・ブラウンと結婚式を挙げた。 そして4月30日(1945年)、毒薬の効果を確かめるため愛犬ブロンディを毒殺した後、午後3時に妻エヴァと共に総統地下壕の自室に入り、自殺する。彼がナチス・ドイツを率いた12年間、人類は二度と繰り返しては成らない「負の遺産」といわれる悲劇を経験する。
当初は、ユダヤ人の財産を没集し、ユダヤ人が公職に就くことを禁じ、ゲットー(ユダヤ人居住区;イラスト参照)に押し込めると言う政策だったが第二次世界大戦の戦況がドイツにとって 思わしくない状態になって行くにつれ、ナチス上層部が強制した政策は排他的な過激な極右的な政策を実施して行った。 おそらく、1942年頃、ユダヤ人問題の「最終解決=絶滅=」と言う図式が完成したのであろう。

ポーランドのアウシュヴィッツなどに設けられた「絶滅収容所」で、ヨーロッパを中心に1100万人居たと推定されるユダヤ人が大量虐殺・ホロコースト(The Holocaust)の対象となり、命を奪われた物の数は約600万人とも言われている。 ‘40年夏、杉原千畝の駐在する在リトアニア領事館に押し寄せてきたのは、このホロコーストの犠牲になるか成らないかの瀬戸際に立たされた 主としてポーランドからのユダヤ人難民たちだったのだ。

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https://youtu.be/drAvNlfb_bY

動画 ; ユダヤ人6人の命を救った偉大な日本人『杉原千畝』に感動

前節へ移行 ; https://thubokou.wordpress.com/2015/08/18/

後節へ移動 ; https://thubokou.wordpress.com/2015/08/20/

 

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