杉原千畝が専行、「命のビザ」=06=

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❢❢❢ 世界中から疎まれた民族 ❢❢❢

緯度的にには北海道よりも北に位置するロンドンの夏の日は長い。 夏至の前後は午後九時になっても日は暮れず、朝は四時ごろから小鳥がさえずり始める。 このロンドンよりも更に北にあるリトアニアのカウナスでは夏の日照時間はさらに長く、厳しい冬の間に失ったものを取り返すかのように人々は戸外でその時間を楽しむ。 もし、平和の時であればである、いや 天気のことを気にかけていりう余裕など無かったであろう・・・・・・・。

この年も、夏の日差しは何時もと同じように降り注いでいたはずだが、杉原たちには そうは見えなかった。 昭和12年/1937年、杉原千畝はフィンランドの在ヘルシンキ日本公使館に赴任し、次いで 昭和14年/1939年にリトアニアの在カウナス日本領事館領事代理として、家族を伴って赴任していた。 昭和15年/1940年7月18日午後6時、ある一団がカウナスの日本領事館の門前を埋め尽くしていた。千畝夫妻は心配げに窓越しにその一団に視線を注いでいた。

約200名のポーランド系ユダヤ人らが、日本を経由した第三国へ渡航するのに必要である 日本の「通過ビザ」を求めて、殺到していたのだ。 杉原千畝領事代理は、事情を把握する為に 代表五名を執務室に招きいれた。 その中には、30年後に 焦心の末に隠棲していた千畝の消息を突き止めたジェホシャ・アニシュリのイスラエル初代宗教大臣と成ったソラフ・バルハツティュクが含まれていた。 因みに・・・・・・・

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 1940年7月18日(木)
午前6時   ビザを求めるユダヤ人約200人が日本領事館の前を埋めつくす。
午前:千畝、事態を把握するためユダヤ人代表を選び領事館に入るように要請。
ニシュリ氏、バルハフティック氏を含む5人の代表と2時間近く話し合う。
ユダヤ人代表
・B. Gehashra Nishri(のちの在日イスラエル大使館参事官)
・A.Dr.Zorach Warhaftig (のちの宗教大臣)
・C. Mirister Shimon Yaeeon(Nishri氏後任、在日イスラエル大使館参事官)
・D. Gileene Klementyroveski
・E. Adv.Zvi Klementyroveski Deputy mayor tel-aviv-yabo

  ユダヤ人代表
「我々はナチスドイツから迫害を受け、ポーランドから逃げてきたユダヤ人で、日本領事館に行けばビザがもらえると聞いてきました。オランダ領キュラソーのビザもあります。日本の通過ビザを交付していただきたい」
  千畝
「みなさんの要求は日本通過の許可ということですが、それを証明するドキュメントでもよいから提出してください。みなさんの窮状はよくわかりました。なんとか援助してあげたいのですが、これだけの枚数のビザとなると外務省の許可が必要ですから、3、4日待ってください」
午後:外務大臣に判断を仰ぐ電報をうつ。<第一回請訓電報>

ポーランドは言うまでも無く デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、フランスがドイツの占領かに在り彼らユダヤ人のナチスからの逃避行は東にしか残されていなかった。 ポーランドとリトアニアには、ミルやテルズなどユダヤ人社会に知られたユダヤ教の神学校があり、ヨーロッパ中から留学生が集まっていた。 そのなかに祖国がドイツに降伏したため無国籍になった、オランダ出身のナタン・グットヴィルトとレオ・ステルンハイムがいた。

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  グットヴィルトは、オランダ領事ヤン・ズヴァルテンディクに出国の協力を求めた。 ヴァルテンディクは、今日でも有名なオランダ企業フィリップ社のリトアニア支社長だったが、1940年(昭和15年)5月、バルト諸国担当のオランダ大使 L・P・デ・デッケルの要請を受けて、ナチス共鳴者のティルマンス博士に代わりカウナス領事に就任していた。 祖国を蹂躙したナチスを強く憎んでいたズヴァルテンディクはグットヴィルトらの国外脱出に協力を約束し、6月末グットヴィルトは、ワルシャワ大学出身の弁護士でユダヤ難民たちのリーダー格だった、ゾラフ・バルハフティクに対して、この件について相談した。 ズヴァルテンディク領事は、「在カウナス・オランダ領事は、本状によって、南米スリナム、キュラソーを初めとするオランダ領への入国はビザを必要とせずと認む」とフランス語で書き込んでくれた。

ズヴァルテンディクによる手書きのビザは途中でタイプに替わり、難民全員の数を調達できないと考えたバルハフティクらはオランダ領事印と領事のサインの付いたタイプ文書のスタンプを作り、その「偽キュラソー・ビザ」を日本公使館に持ち込んだのである。 ドイツ軍が追撃してくる西方に退路を探すのは問題外だった。 そして、今度はトルコ政府がビザ発給を拒否するようになった。 こうして、トルコ領から直接パレスチナに向かうルートも閉ざされた。 もはや逃げ道は、シベリア鉄道を経て極東に向かうルートしか難民たちには残されていなかった。 難民たちが、カウナスの日本領事館に殺到したのには、こうした背景があった。

日本の「通過ビザ」さえあれば、≪南米スリナム、キュラソーを初めとするオランダ領への入国はビザを必要とせず≫、ソ連はシベリア鉄道での横断を許可するとの判断を示していた。 ソラフ・バルハツティュクが公的に提示した≪南米スリナム、キュラソーを初めとするオランダ領への入国はビザを必要とせず≫のみの一文を携えてやって来たユダヤ人たちにとって、すべての 命の鍵を握るのは杉原千畝と言う一人の日本人、外交官だったのである。

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 第二次世界大戦当時、経済恐慌の後遺症の苦しむ多くの国はユダヤ難民に対して 冷酷な態度を見せていた。 1939年、今日 親イスラエルのアメリカですら、セントルイス号でドイツのハンブルグを出航してはるばる大西洋を渡ってきたユダヤ人約1000名の上陸を拒否している。 もともと 受け入れを申し出ていたキューバ政府に土壇場で入国を拒否されたばかりか、米国にも拒絶されたこれらの人々はベルギーに泣く泣く逆戻りを強いられ やがて ホロコーストの犠牲者の列に加えられる運命に落ちた。 対戦終了後、生き残ったのはわずか300人弱だったと言う。

残酷だが、ユダヤ難民は世界中から嫌われていたと言っても過言ではない。 時代の風潮であった。 しかし、その前年の1938年12月6日、ユダヤ難民の扱いについて「五相会議=首相・外相・陸/海軍相・蔵相=」を開いた日本政府は、“日本国、満州国、中国領内に居住するユダヤ人について、他の外国人と同等に扱い、追放などはしない”と明示した上で、「日本、満州、中国への入国を希望するユダヤ人について、現行の移民法にのっとって平等に扱う」といった基本姿勢を決定していた。

これに基づき、外務省が出した「250ドル以上を携帯し、受け入れ先国の入国ビザを所有する者には通過ビザの発給を許可する」との通達が成され、通達の対象にはユダヤ人も上通告の範疇として含まれていた。 日本が同盟国ドイツの意に沿わないユダヤ難民に比較的寛容な態度を示したのはなぜだろうか。 一説によると、ユダヤ人を積極的に受け入れ、満州に【極東ユダヤ国】なるものを建国、共同してソ連の南下政策に対抗しようと日本の軍上層部が真剣に考えていた時期があったと言う。

が、それよりも 欧州列強に肩を並べようと 精一杯 背伸びしていたのであろうが、しょせん 非白人、国際連盟で人種的偏見による不利益をこうむることを恐れていた日本人は、無意識のうちにユダヤ人にある種の共感を覚えていたのではなかろうか。 欧米人から蔑まれ、疎まれるユダヤ人難民の姿を見て、ひとごととは思えないとい気がして ならなかったのであろう。

https://www.youtube.com/watch?v=m5_q1i5ntTY&feature=player_embedded

動画 ; ユダヤ人の記憶に生きる日本人 杉原千畝

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