杉原千畝が専行、「命のビザ」=07=

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☛ ☞   1967年に書かれた千畝による露文書簡の冒頭部分

“カウナスは、ソ連邦に併合される以前のリトアニア共和国における臨時の首都でした。 外務省の命令で、1939年の秋、私はそこに最初の日本領事館を開設しました。 リガには日本の大使館がありましたが、カウナス公使館は外務省の直接の命令系統にあり、リガの大使館とは関係がありませんでした。 ご指摘の通り、リガには大鷹正次郎氏がおり、カウナスは私一人でした。 周知のように、第二次世界大戦の数年前、参謀本部に属する若手将校の間に狂信的な運動があり、ファシストのドイツと親密な関係を取り結ぼうとしていました。 この運動の指導者の一人が大島浩・駐独大使であり、大使は日本軍の陸軍中将でした。 大島中将は、日独伊三国軍事同盟の立役者であり、近い将来におけるドイツによる対ソ攻撃についてヒトラーから警告を受けていました。

しかし、ヒトラーの言明に全幅の信頼を寄せることが出来なかったので、大島中将は、ドイツ軍が本当にソ連を攻撃するつもりかどうかの確証をつかみたいと思っていました。 日本の参謀本部は、ドイツ軍による西方からのソ連攻撃に対して並々ならぬ関心を持っていました。 それは、関東軍、すなわち満洲に駐留する精鋭部隊をソ満国境から可及的速やかに南太平洋諸島に転進させたかったからです。 ドイツ軍による攻撃の日時を迅速かつ正確に特定することが、公使たる小官の主要な任務であったのです。 それで私は、何故参謀本部が外務省に対してカウナス公使館の開設を執拗に要請したのか合点がいったわけです。 日本人が誰もいないカウナスに日本領事として赴任し、会話や噂などをとらえて、リトアニアとドイツとの国境地帯から入ってくるドイツ軍による対ソ攻撃の準備と部隊の集結などに関するあらゆる情報を、外務省ではなく参謀本部に報告することが自分の役割であることを悟ったのです。“ と杉原千畝は自筆している。

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❢❢❢ 悩みぬいた10日間 ❢❢❢

1940年(昭和15年)7月、ドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ系難民などが、各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしていた。 当時リトアニアはソ連軍に占領されており、ソ連が各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めたため、ユダヤ難民たちは、まだ業務を続けていた日本領事館に名目上の行き先(オランダ領アンティルなど)への通過ビザを求めて殺到した。 「忘れもしない1940年7月18日の早朝の事であった」と回想する千畝は、その手記のなかで、あの運命の日の光景をこう描いている。

「・・・で、私は急ぎカーテンの端の隙間から外をうかがうに、なんと、これはヨレヨレの服装をした老若男女で、いろいろの人相の人々が、ザッと100人も公邸の鉄柵に寄り掛かって、こちらに向かって何かを訴えている光景が眼に映った」。

ロシア語で書かれた先の報告書にあるように、カウナスに領事館が設置された目的は、東欧の情報収集と独ソ戦争の時期の特定にあったため、難民の殺到は想定外の出来事であった。 杉原は情報収集の必要上亡命ポーランド政府の諜報機関を活用しており、「地下活動にたずさわるポーランド軍将校4名、海外の親類の援助を得て来た数家族、合計約15名」などへのビザ発給は予定していたが、それ以外のビザ発給は外務省や参謀本部の了解を得ていなかった。

本省と千畝との間のビザ発給をめぐる齟齬は、間近に日独伊三国軍事同盟の締結を控えて、カウナスからの電信を重要視していない本省と、生命の危機が迫る難民たちの切迫した状況を把握していた出先の千畝による理解との温度差に由来している。

ユダヤ人迫害の惨状を熟知する千畝は、「発給対象としてはパスポート以外であっても形式に拘泥せず、彼らが提示するもののうち、領事が最適当と認めたもの」を代替案とし、さらに「ソ連横断の日数を二〇日、日本滞在三〇日、計五〇日」を算出し、「何が何でも第三国行きのビザも間に合う」だろうと情状酌量を求める請訓電報を打つが、本省からは、行先国の入国許可手続を完了し、旅費及び本邦滞在費等の携帯金を有する者にのみに査証を発給せよとの発給条件厳守の指示が繰り返し回電されてきた。

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7月19日(金)
 午前:ユダヤ人代表と再協議
午後:ソ連領事館に出向き、日本通過ビザでソ連国内通過は可能かを打診し、問題なしとの回答を得る。
渡航条件完備者、2人に通過ビザを発給。
7月21日(日)
休館
7月22日(月)
外務省より第一回回訓。「ビザ発給拒否」
「最終国の入国許可を持たない者にはビザは発行してはならない」
千畝、苦悩のすえ再度外務省に電報をうつ。<第二回請訓電報>
7月24日(水)
外務省より第二回回訓。「ビザ発給拒否」
渡航条件完備者、5人に通過ビザを発給。 =千畝、一晩中ビザを発給するかどうか悩む。=

史実を復元しているのであるが、ここでひとつ 明確にしておきたいことがある。 近年、杉原千畝の勇気ある決断に対して、前述の「五相会談」で決定された親ユダヤ的と言える政策をよりどころにした千畝の判断であった。 この一点をことさらに強調し、名誉を獲得しえた杉原千畝の決断とその行動は、特筆に価するほどのものではなかったように言及する人々がいた。 特に外務省の関係者と聞く。 また、外務省の訓令に逆らって千畝が通過ビザ発給を決断したと言う点で反発する声は官界では主流であった。

外務省は上記のように「250ドル以上を携帯し、受け入れ先国の入国ビザを所有する者には通過ビザ発行を許可する」としていた。 決して発給を禁じていた分けではない。 従って、杉原千畝一人を英雄扱いする事には疑問があると主張する人が居る様だった。 しかし、果たして千畝が置かれた状況下で、 すなわち ナチス・ドイツから何らかの妨害=事実、カウナスの日本領事館の事務員であるグッジュはナチス党員である=を受け、場合によっては暗殺される恐れもあった。 緊迫する問題を直視して、立っている足元と状況を承知の上で同様の行動をとれる人が何人いただろうか。

また、外務省の最終的な発給許可なく通過ビザ発行の対象資格を満たしていない大量のユダヤ人難民にビザを発給する事になれば、深刻な責任問題が発生する。 この問題を覚悟して、あえて自己責任で難しい道を選択・決断する人はどれほど居たであろうか。 通信手段も暗号による電報か船舶による通信文という時代にである。 さらに、欧州の片隅 誰もたに日本人のいない小さな弱小国の仮の都・カナウスで、守ってくれる軍隊や協力者などが傍に居るわけでもない。 まさに、孤立無援とも言える状態の中に置かれているとしたら、妻子と義妹の安全を考えて、どう行動するか・・・・・・・。

自分だけでなく家族を危険にさらし、さらには 外務省から責任を問われることは、困窮していた学生時代に、自分の才能に対して「投資」してくれた組織を裏切るとことである。 同時に、外交官として祖国・日本に対して働く事に無限の喜びを感じている千畝が、外交官職そのものをも失う可能性をはらむ行為であった。 しかも  日本と防共協定を結んでいたドイツの政策に逆らうことにより、最悪の場合 ドイツと日本の友好関係にひびを入れる、外交的な批判の矢を放つことになる。 曳いては日本の国益を損ねる背信行為になる。 千畝は10日間、心の中で葛藤を繰り返した。 苦悩の出口が見つからない・・・・・・・。

杉原夫人が、難民たちの内にいた憔悴する子供の姿に目をとめたとき、「町のかどで、飢えて、息も絶えようとする幼な子の命のために、主にむかって両手をあげよ」という「旧約の預言者エレミアの『哀歌』が突然心に浮かん」だ。そして、「領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」という千畝の問いかけに、「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけど、そうして上げて下さい」と同意する。 千畝は条件を満たしている者(わずか10名たらず)への通過ビザ発給手続きを行いながら、 計二回 祈りをこめつつ日本に向けて指示を仰ぐ電報をそうしんした。しかし、二度ともよい返事は得られなかった。

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  オランダ領事館が出した≪キュラソーへ入るには入国ビザは必要ないことを証明する≫旨の文書は、厳密に言うとキュラソーへの入国ビザとはいえないものだった。 また、リトアニアに逃れてきたユダヤ人の中には、“250ドル以上”を携帯している者はほとんどおらず、旅費・滞在費に関しての不足分は、ユダヤの同胞機関から日本の「神戸ユダヤ協会」に届けられる予定の資金を現地・日本で受け取るという「方便」が案出されたが、これも外務省を納得させるものではなかった。 日本では神戸などの市当局がユダヤ人の入国が増加し、困っているのでこれ以上ビザを発給しないようにと本省を突き上げていた。

“条件を満たさない者に関してはビザを発給してはならない”、“大集団の日本への一時入国は、公安上 許可できない。また福井県・敦賀への移送を担うことになる船舶会社も安全上の理由から反対している” しかし、杉原千畝は外務省からの二回目の拒否回答を得た後、幸子夫人に自分の決意を伝えた。 幸子夫人に異存はなかった。 「子供たちも、自分も最悪に場合 命の保障はないのだ」と言う思いが胸をよぎったと言うが。 このままユダヤ人たちを見捨てて国外に脱出するということは杉原夫妻bの道徳観から当然のごとく除外されていたのだった。

そこで千畝は、苦悩の末、本省の訓命に反し、「人道上、どうしても拒否できない」という理由で、受給要件を満たしていない者に対しても独断で通過査証を発給した。 彼は、「外務省から罷免されるのは避けられないと予期していましたが、自分の人道的感情と人間への愛から、1940年8月31日に列車がカウナスを出発するまでビザを書き続けました」とし、避難民たちの写真を同封したこの報告書のなかで、ビザ発給の理由を説明している。

杉原の独断によるビザ発給に対する本省の非難は、以下のようなものであった。

— 1940年816日付の本省から杉原の独断によるビザ発給を非難する電信

最近貴館査證ノ本邦經由米加行『リスアニア』人中携帶金僅少ノ爲又行先國手續未濟ノ爲本邦上陸ヲ許可スルヲ得ス之カ處置ニ困リ居ル事例アルニ附避難民ト看傲サレ得ベキ者ニ對シテハ行先國ノ入國手續ヲ完了シ居リ且旅費及本邦滯在費等ノ相當ノ携帶金ヲ有スルニアラサレハ通過査證ヲ與ヘサル樣御取計アリタシ
【現代語訳=最近カウナスの領事館から日本を経由してアメリカ・カナダに行こうとするリトアニア人のなかには、必要なお金を持っていなかったり行先国の手続きが済んでいなかったりなどの理由で、わが国への上陸を許可できずその処置に困ることがあります。避難民と見なしうる者に関しては、行先国の入国手続きを完了し、旅費・滞在費等に相当する携帯金を持っている者でなければビザを与えないよう取りはからって下さい】

https://www.youtube.com/watch?v=3lCYDvoHKQE&feature=player_embedded

動画 ; 「ブルーマン~ 杉原ビザにより命を授けられたユダヤ人の物語」

前節へ移行 ; https://thubokou.wordpress.com/2015/08/20/

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