杉原千畝が専行、「命のビザ」=08=

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❢❢❢ 2139枚の「命のビザ」と領事館閉 ❢❢❢ 

窮状にある避難民たちを救済するために、千畝は外務省を相手に芝居を打った。 もし本省からの譴責に真っ向から反論する返電を送れば、本省からの指示を無視したとして、通行査証が無効になるおそれがある。そこで千畝は、本省からビザ発給に関しての条件厳守を指示する返信などまるでなかったかのように、「当國避難中波蘭出身猶太系工業家『レオン、ポラク』五十四歳」に対するビザ発給の可否を問い合わせる。 つまり、米国への入国許可が確実で、十分な携帯金も所持しており、従って本省から受け入られやすい「猶太系=ユダヤ系=工業家」をあえて採り上げるのである。

そして千畝は、わざと返信を遅らせてビザ発給条件に関する本省との論争を避け、公使館を閉鎖した後になって電信第67号(8月1日後發)を本省に送り、行先国の許可や必要な携帯金のない多くの避難民に関しては、必要な手続きは納得させた上で当方はビザを発給しているとして強弁して、表面上は遵法を装いながら、「外國人入國令」の拡大解釈を既成事実化した。

7月25日(木)
ビザ発給を決断。 受入国は「キュラソー」とする。
大量発行のためのビザのゴム印を発注。
ユダヤ人4人に通過ビザ発給。
7月26日(金)
18人に通過ビザ発給。
7月27日(土)
42人に通過ビザ発給。
「キュラソー」ゴム印届く。

一時に多量のビザを手書きして万年筆が折れ、ペンにインクをつけては査証を認める日々が続くと、一日が終わり「ぐったり疲れて、そのままベッドに倒れ込む」状態になり、さらに「痛くなって動かなくなった腕」を夫人がマッサージしなくてはならない事態にまで陥った。 手を痛めた千畝を気遣い、杉原がソ連情報を入手していた、亡命ポーランド政府の情報将校「ペシュ」こと、ダシュキェヴィチ大尉は、「ゴム印を作って、一部だけを手で書くようにしたらどうです」と提案。 オランダ領事館用よりは、やや簡略化された形のゴム印が作られた。

7月29日(月)
千畝、「ビザを発行する」とユダヤ人難民に宣言する。
ビザ発給121枚。

7月30日(火)
ビザ発給260枚。
7月31日
ビザ発給146枚。
8月2日(金)
外務省より領事館退去命令 。

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 1940年7月29日、月曜日。杉原千畝は「通過ビザを発行する」旨ユダヤ人たちにつげた。この日から一カ月あまり、かうなすを離れるまで、千畝は寝食を忘れてビザの発行に傾倒する。 まさに、傾注したのである。初めは全て手書きであったが、大量発給を可能にするため、受入国をキュラソーとする通過ビザであることを示すゴム印を作成、途中から少しでのスピードアップできるよう番号付けを取り止めるなどする。 所定の手続き業務を簡素化して、千畝はただひたすらビザの発給に没頭した。

8月3日、リトアニアは正式にソ連に併合され、独立国ではなくなり、領事館も存在理由をうしなった。 本国・外務省は、この併合の公式発表に先駆け その前日の2日に杉原に撤退命令をだした。ソ連からもまもなく退去要請を受けたが、千畝は両国からの強い要請を無視して領事館に留まり続けた。 万年筆が折れ、腕が動かなくなるほど疲労し、幸子夫人がマッサージをしている間に仮眠をむさぼると言う状況のもとでビザ発給を止めなかったのである。

ただ、ソ連と日本の両方から領事館閉館・国外退去を求める圧力は日増しに高まっていった。 ソ連政府や本国から再三の退去命令を受けながら一カ月余寝る間も惜しんでビザを書き続けた千畝は、本省からのベルリンへの異動命令が無視できなった。 8月26日、千畝はついに領事館閉館を余儀なくされる。 領事館内すべての重要書類を焼却し、外務省外交資料館に保管された、通称「杉原リスト」と呼ばれるビザ発給名簿に記録された、最後の三名にビザを発給した。

そして、家族と共に今日まで残る老舗ホテル「メトロポリス」に移った。 このホテルで次の赴任地であるプラハに向かうためのベルリン行きの列車に乗るまでの10日間、さらに ビザを発給した。 千畝は領事印を荷物に梱包してしまったため、ホテル内で仮通行書を発行したのである。 そして9月5日、ベルリンへ旅立つ車上の人になっても、杉原は車窓から手渡しされたビザを書き続けた。

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  その間発行されたビザの枚数は、番号が付され記録されているものだけでも2,139枚にのぼった。 汽車が走り出し、もうビザを書くことができなくなって、「許して下さい、私にはもう書けない。 みなさんのご無事を祈っています」と千畝が頭を下げると、「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」という叫び声があがった。 そして「列車と並んで泣きながら走っている人」が、千畝たちの「姿が見えなくなるまで何度も叫び続けて」いた。

前節で触れたが、疲労困憊の杉原千畝を突き動かしたものが、報酬への期待や功名心だったのではないかと、意地の悪い詮索をする者も、後の外務省にはいた。 ユダヤ人から大金をもらってビザを渡したという中傷についてjは、カウナスで杉原千畝と最初の話し合いを持った五人の代表の一人で、イスラエルの初代宗教大臣と成ったゾラフ・バルハフティックもこれを否定している。 規定のビザ発給手数料=当時の30銭=すら途中で要求しなくなったと話す。

一枚でも多く、一人でも多く・・・・・・文字どうり、命を懸けてビザを求めてやってくるユダヤ人たちに対して、千畝は良心ある一個の人間として応えたと考えるべきであろう。 ハルピン時代に洗礼を受け、ロシア正教徒と成っていた千畝が、その頃の一般的な日本人以上に 「博愛精神」・「人道主義」と言うキリスト教世界でより発達した価値観の影響を受けていたことは間違いがないであろう。 追証すれば、ロシア語を学んだハルピン学院が「人の世話になるべからず、人の世話をすべし、報いを求めるべからず」と示す建学精神む、千畝の考えかた、生きざまに大きな影響を及ぼしたとする意見も多い。

いずれにせよ 確かなことは、「杉原リスト」に2139名の名前が記されているという点だ。 これは8月26日までの記録であるため、メトロポリタン・ホテルなどで発給されたビザの数は深まれておらず さいしゅうてきなビザ発給数は明確ではないものの、当時は一枚のビザで一家族が移動する事が許されたのである。従って、これらのビザにより6000名、いや それ以上のユダヤ人が生き残るチャンスを得た事になる。

運命は時として ごく一部の人間に大きな使命を予告なしで与える事がある。 この時の杉原千畝は、まさにその使命を好むと好まざるに関わらず与えられたのだ。 1940年9月5日、ベルリン行きの国際列車に乗り込むため 杉原夫妻、長男弘樹、次男千暁、そして 5月に生まれたばかりの三男晴生、幸子夫人の妹節子の六名はカウナス駅に向かった。

プラットホームにはビザをもらおうと、必死で杉原千畝にパスポートや書類を差し出すユダヤ人たちがなお多数 列を成して待っていた。 発車ベルが鳴っても千畝はビザを書き続けたが、ソ連兵によって無理やり列車に乗せられたのである。 走り始めた列車の中で、全てのユダヤ人に通過ビザを発給し切れなかったことを悔やんで 涙を流す千畝を慰める言葉が、幸子夫人は見つからなかったと言う。

杉原千畝と幸子夫人の人生の中で、このカウナスでの50日間は最も劇的な経験であったことは疑う余地がないであろう。 しかし、カウナスを離れたその瞬間が、人生の次章とも呼ぶべき 二人の波乱に満ちた日々の幕開けでもあったのだった。

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https://youtu.be/gyvNaDwN3oE

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