杉原千畝が専行、「命のビザ」=09=

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❢❢❢ 領事館閉鎖後の避難民 ❢❢❢

昭和16年/1941年に入り、独ソ戦が目前になると、ドイツとソ連に分割された東欧のユダヤ人の運命はさらに過酷なものになり、ヒトラーとスターリンに挟撃されて右往左往する他はなかった。モスクワの日本大使館にも日本通過ビザを求める難民たちが殺到し、駐ソ大使・建川美次は、その惨状を1941年4月2日付の電信で、以下のように伝えている。≪彼ラ住ム家ナク歸ルニ所ナク進退キワマリ囘答ノ不信ヲ泣訴終日號泣シテ立去ラル者アリ(難民たちには家もなく、帰るところもなく、助けて下さいと訴え、一日中泣いて大使館から立ち去ろうとしません)≫

独ソ戦の開始以前に運良く通過ビザを入手できた難民たちも、すべてがシベリア鉄道で極東までたどり着けたわけではなかった。 当時ソ連は外貨不足に悩んでおり、シベリア鉄道に乗車するためには、ソ連の国営旅行会社「インツーリスト」に外貨払いで乗車券を予約購入しなければならなかったからである。 乗車券は当時の価格で約160ドルもし、通常の銀行業務が滞りがちな戦時に、着の身着のままで逃げてきた難民たちの誰もが支払えるという金額ではなかった。

逃げ遅れたユダヤ人たちの多くは、アインザッツグルッペンと呼ばれる「移動殺戮部隊」の手にかかったり、ナチスやソ連の強制収容所に送られて絶命した。 独ソ戦が始まるや、ヴァルター・シュターレッカー親衛隊少将率いるアインザッツグルッペAは、北方軍集団に従って移動。 そして、リガ(ラトヴィア)・タリンエストニア)・プスコフレニングラード(ともにソ連)に向かう中継地たるカウナスにまず殺到したため、杉原千畝の赴任先であったカウナスにおけるユダヤ人社会は、特に甚大な被害を受けた。

カウナスのユダヤ評議会の指導者の役割を不承不承押しつけられた医師のエルヒャナン・エルケスは、荒れ狂うユダヤ人殺戮についてイギリスにいる子供たちに書いた1943年(昭和18年)10月付の手紙の中なかで、殺戮部隊が「大量殺戮という任務を終えると、頭のてっぺんから靴の先まで、泥とわれわれの仲間の血にまみれて戻って」きて、「テーブルについて、軽い音楽を聴きながら、料理を食べ、飲み物を飲むのです。彼らはまさに殺戮のプロでした」と述べている。

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 カウナスでは、保護を口実に1941年(昭和16年)8月末までに、ヴィリンヤンポレに設置されたゲットーにユダヤ人の移送が完了し、1万5,000人が住んでいた密集家屋に約3万のユダヤ人が押し込められた。 独ソ戦開始前のカウナスのユダヤ人人口は約4万であり、開戦後わずか2カ月で1万人ものユダヤ人が殺害されたのである。 1939年から1940年とい千畝のカウナス赴任は、それより早くても遅くても、難民救済に効果を発揮しなかった。 その赴任の時期は、ゾラフ・バルハフティクが「タイムリー」と呼ぶ時宜にかなったものであり、「カウナスでのあの一カ月は、状況と場所と夫という人間が一点に重なった幸運な焦点でした。 私たちはこういうことをするために、神に遣わされたのではないかと思ったものです」と杉原夫人は述べている。

「父は相手がユダヤ人であろうとなかろうと、助けたことでしょう。 父に尋ねればきっとそう答えると思います。ユダヤ人であろうとキリスト教徒であろうと変わりはありません」という、四男・伸生(のぶき)による「カウナス事件」に関する発言は、カウナスでの難民救済の実情と正確に符合している。 カウナス事件において問題になっているのは、「難民問題」であって「民族問題」ではない。 いわゆる「杉原ビザ」の内、1938年(昭和13年)12月6日の第1次近衛内閣の五相会議決定によるユダヤ人保護政策「猶太人対策要綱」の「資本家、技術者ノ如キ特ニ利用價値アル者」に該当する事例は一件のみであり、カウナスにおける難民救済は、満洲にユダヤ人居留区を創設しようとする企画「河豚計画」ともまったく関係がないことだった。

❢❢❢ ポーランド諜報機関と日本の外交官❢❢❢ 

千畝のハルビン時代の後輩で在ベルリン満洲国大使館一等書記官の笠井唯計(ただかず)が理事官補だった1940年(昭和15年)、フィンランドの尾内陸軍大佐と相談し、情報提供と引き替えに満洲国のパスポートを出した一人に、イェジ・クンツェヴィチなるポーランドの情報将校がいた。 クンツェヴィチは、カウナスの杉原と協力するときは「クバ」と名乗る、ポーランド参謀本部第二部のアルフォンス・ヤクビャニェツ大尉であった。1941年(昭和16年)7月、ゴルフに行く笠井はヤクビャニェツを便乗させた。 ヤクビャニェツ大尉は、ポーランドの地下抵抗運動の秘密集会に出席することころだった。

ピクニックという名目で国境付近を偵察する杉原千畝らの動向に以前から不審を抱き、ドイツ防諜機関は密かに杉原周辺の探索を続けていたが、1941年、ついに日本及び満洲国の大公使館とポーランド情報機関の協力関係をつかんだ。 7月6日夜半から7日未明にかけて、ヤクビャニェツ大尉さらに満洲公使館にメイドとして勤務していたザビーナ・ワピンスカがベルリンの中心部ティーアガルテンで逮捕され、拷問の結果、日本の大公使館の外交行囊を用いて中立国スウェーデンからロンドンの亡命ポーランド政府に情報を送るクーリエの経路がドイツ側の察知されることになったのである。

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 ドイツ防諜機関の責任者であったヴァルター・シェレンベルクの有名な回想録の第12章はまるまる「日本とポーランドの陰謀」と題されている。 そして「K某」(ヤクビャニェツの偽名「クンツェヴィッチ」の頭文字)の逮捕を契機に明らかになった対独諜報網の全欧規模の広がりを目の当たりにしたシェレンベルクは、ソ連を共通の敵としているはずの日本が深く関与していることにいらだちを露わにしている。

ドイツ諜報機関はまた、日本人とポーランド諜報部との協力関係の後援者として、在ローマ日本大使館の河原畯一郎・一等書記官やイエズス会総長のヴウォジミエシュ・レドゥホフスキ神父が深く関与していることについてイタリア国防部から警告を受けていた。後にストッコホルム武官府の小野寺信大佐(当時)に引き継がれるポーランド諜報網との接触に関しては、まず亡命政府のガノ大佐からワルシャワの日本大使館武官府にポーランド情報組織の接収の提案があり、日本側は表向きはドイツとの同盟関係を理由に拒絶した。 しかし、在欧の日本とポーランドの将校や外交官たちは密かに接触を続け、ビィウィストク(ポーランド)やミンスク、スモレンスク(ソ連)を拠点とするポーランド諜報網から、在欧日本大公使館と武官府はソ連の軍事的動向を高い確度で知ることができた。

杉原千畝の接触は、すでにフィンランド時代に始まっており、まずヘルシンキ在住のジャーナリスト、リラ・リシツィンを通して、その従姉妹にあたるゾフィア・コグノヴィツカの息子で、ポーランド「武装闘争同盟」(ZWZ;後のAK 国内軍)のカウナス地下司令部のメンバーであるタデウシュ・コグノヴィツキに近づくことから始まっていた。 千畝の本省への回電に、実際に足を運んでいない「スモレンスク」「ミンスク」に関する情報が含まれているのは、ポーランド諜報網との協力の成果である。

千畝は、1941年(昭和16年)の5月9日後發の電信で、「獨蘇關係ハ六月ニ何等決定スヘシトナス」と、6月22日に勃発する独ソ戦の時期を正確に予測し、また経済通らしく、「極メテ多量ノ『ミンスク』發穀物到着セリ」と、ソ連側が穀物の大量備蓄を始めて長期戦に備えていることを報告している。 更に 千畝は、ヨーロッパを席巻するドイツの破竹の勢いに幻惑されている本国に、「独ソ戦近し」、またソ連は日本が考えているほど早く戦線を放棄しないことを警告する電信を打電している。大島は千畝らの情報を元に、東京に独ソ開戦情報と意見具申を伝えているが、日米交渉に没頭していた日本政府は、他が見えない近視眼に陥っていた。 第2次近衛内閣の書記官であった富田健治は、「独ソ戦近し」を伝える大島からの「この情報をそう強く信じていたわけではないが、かなり心配していた。 しかし帰国した松岡が否定的であり、陸海軍も独ソ開戦戦せずという空気であったので、そのまま見送られた」と述べている。

戦後衆議院議員になる富田健治は、戦時日本のインテリジェンス機能の麻痺と、「空気」で最高指導政策が決定されてしまう恐るべきガバナンスの欠如を物語っている。 出先には優秀な諜報要員を配置しながら、中央に適切な分析官を用意できなかったため、命がけで入手された情報も活かされなかったと言い。 また、情報伝達の技術的側面の遅れも深刻で、大島の電信は、一ヵ月も経たない5月10日に英国諜報機関によって解読されていたと証言しているのである。

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https://youtu.be/3lCYDvoHKQE

動画 ; George Bluman 「ブルーマン~ 杉原ビザにより命を授けられたユダヤ人の物語」

 

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