杉原千畝が専行、「命のビザ」=11=

08-25-1

❢❢❢ 独ソ戦と第三帝国の落日 ❢❢❢ 

1940年9月、忘れようにもとうてい忘れられることの出来ないカウナスでの夏を経験した杉原千畝家族はプ、ベルリン経由で次の赴任地であるブハラに向かった。 外務省からの訓令に背く“通過ビザ”発行の責任を追及されるであろうと恐れていた千畝であったが、予想外に「お咎め」はなく、リストニアでの領事業務の報告を求められただけだった。 前記のように、杉原千畝の外交官としての情報収集とその分析能力を高く評価されていたのであろう。 そのまま、チェコスロバキアのプハラ総領事館勤務に就いた。 翌年の2月末には、ドイツ領東プロイセンのケニヒスブルグ領事館に異動、さらに 一等通訳官(後に三等書記官)として、ルーマニアのブカレスト公使館勤務を任じられて移動しているのだが・・・・・・・・・・・。

難民たちが脱出したリトアニアはその後、独ソ戦が勃発した1941年(昭和16年)にドイツの攻撃を受け、ソ連軍は撤退。 以後、1944年(昭和19年)の夏に再びソ連によって奪回されるまで、ドイツの占領下となる。 この間のリトアニアのユダヤ人20万8,000人の内、殺害された犠牲者数は19万5,000人から19万6,000人にのぼり、画家のベン・シャーンや哲学者のエマニュエル・レヴィナスを生んだ、カウナスのユダヤ人社会も壊滅した。またソ連領内でも多数のユダヤ難民がシベリアなど過酷な入植地に送られ絶命した。

1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争の勃発で、日本からアメリカ合衆国への渡航が不可能になり、滞在期限が切れたユダヤ人たちは当時ビザが必要なかった上海租界に移動せざるを得なかった。 上海では、ドイツの強硬な申し入れのもとにドイツを真似てユダヤ人ゲットー上海ゲットー)が作られ、上海のユダヤ人たちはそこに収容されることになった。 上海が戦禍に覆われていたこともあり、終戦間際にはアメリカ軍機による空襲で数十名のユダヤ人が死傷した。

Die sogenannten "Hep-Hep-Krawalle" in Frankfurt am Main, Antisemitische Ausschreitungen in Deutschland 1819; Radierung, zeitgenössischOriginal: Frankfurt am Main, Historisches MuseumStandort bitte unbedingt angeben!;

上記のごとく、1941年(昭和16年)には、東プロイセンの在ケーニヒスベルク総領事館に杉原千畝は赴任し、ポーランド諜報機関の協力を得て独ソ開戦の情報をつかみ、5月9日発の電報で本国に詳細に報告しているが、≪ベルリンからケーニヒスベルク方面に相変わらず毎日およそ十輛程度の軍用列車が北上しており、車輛はフランスから徴発したものが用いられています。(…)東プロイセンには旧ポーランド領に劣らぬ大兵力が結集しているので、独ソ関係は6月には決定的局面を迎えるでしょう。(…)ドイツ軍の野戦将校たちは5月までに地図が読める程度のロシア語の習得が命じられ、目下バルト系ドイツ人や白系ロシア人が先生として引っぱりだこです — 194156日付で独ソ戦の勃発時期を特定した電信  —≫

日本による真珠湾攻撃、太平洋戦争勃発の知らせを受けたのは、ブカレスト赴任の直前だった。 「この戦争は負ける」と予想したものの、一外交官としては何が出来るわけでもなく、千畝は歯がゆい思いをしていた事であろう。 真珠湾攻撃に先駆けて、ヨーロッパ駐在の日本人外交官たちには家族を日本に返すよう通達が出されたが、「遠く離れた日本で(千畝のことを)心配するのは嫌」だと考えた幸子夫人は、子供たち、そして 妹と共に杉原のもとに留まることを選択している。

41年末以降、ドイツの敗色は年を追うごとに色濃くなって行った。 しかし、ドイツの同盟国であった日本国の公使館に勤務していた杉原千畝らは、ドイツ占領下のブカレストで比較的恵まれた生活を送っていた。 だが、やがて食料品は配給制のものしか手に入らなくなった。 一般人・一般用とは異なり、同盟国日本の外交官には、外交官特権にて コーヒーなどの嗜好品も配給されるなど優遇されていた。

しかし、1944年になると、ブカレストも連合軍の空襲を受けるようになる。 また 同年三月、ソ連軍が旧国境を越えてルーマニアへの侵攻を開始し、ドイツ軍は徐々に撤退を余儀なくされるようになった。 そして、千畝の報告の通り、6月22日独ソ戦が勃発した。 まもなく、杉原一家はボヤナブラショフというブカレスト近郊の別荘地へ一時避難するこになったのだが、5月になって 幸子夫人が消息不明になるという事件が起こってしまう。千畝は同年11月から1946年(昭和21年)まで、ルーマニアのブカレスト公使館などヨーロッパ各地を転々とし、各職を歴任する。 千畝がブカレスト公使館に勤務していた時代には、鉄衛団の扇動によってルーマニアのユダヤ人歴史の上でもとりわけ残忍なポグロムが頻発していた。

千畝とともに激動のヨーロッパを駆け抜けてきた杉原夫人は、 ルーマニアの「フェルディナンド王が亡くなった時に、ミハイの父であるカロルは、“二十世紀のクレオパトラ”と呼ばれたユダヤ人のルペスク夫人との恋愛を問題にされ、後継者の座を追われてフランスに住んでいましたので、まだ六歳だった幼いミハイが一国の王様として即位されたのです」などと指摘し、第二次世界大戦中ヨーロッパを席巻していた反ユダヤ主義に関する鋭い歴史的観察者としての側面を示している。

どの政治家も民族主義の扇動でのし上がってきた当時のルーマニアでは、民族主義そのものは人を際立たせる特徴とならず、反ユダヤ主義が政争の重要なファクターになっていたことを端的に示すエピソードであるの。 しかし 目の前の現実では、首都のブカレストは子供連れの杉原家には危険だろうということで、ルーマニア時代の杉原一家はポヤナブラショフに疎開していたのだ。 が、そこで他ならぬ幸子夫人をめぐる一つの事件が起こった。

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  ヘルシンキにいた頃フィンランドの作曲家シベリウスから送られたレコードとサイン入りポートレートをブカレストに置き忘れて来たことに気づき、その奪回のために単身首都に戻ろうとする。 大作曲家シベリウスのサイン入り写真は幸子夫人が宝物として、大切にしていた。 他にも、ブカレスト市内の自宅に置いて来て貴重品が気にかかり、手元に置こうと無謀な外出を決行したことが原因となった。

ブカレストではソ連軍とドイツ軍の間で市街戦が始まり、帰路に就いた幸子夫人は撤退してきたドイツ兵と共に、ブカレストとドイツ領間にある森に逃げ込まなければならぬ窮地に陥った。 携帯電話などなき時代である。 森の中を逃走する内に、幸子夫人は車外に投げ出され、領事館付きの運転手とは離れ離れになり、千畝に所在を知らせる術を幸子夫人は完全に失ってしまった。 パルチザンに取り囲まれ、幸子夫人はドイツ兵と共にとりに立てこもった。

動画 ; 杉原千畝ビザによってホロコーストから生還したレオ=メラメド氏が講演= 2014 07 01=
https://youtu.be/YRWkdxTYWIc

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