杉原千畝が専行、「命のビザ」=14=

08-28-1

☛ ☞  杉原千畝領事に助けられ日本を通過した一ユダヤ人、レオン・ランチャートさん
OCS, Feb. 24, 1992の記載記事(後編)

上海へ

ランチャート兄弟が日本政府によって神戸から上海へおくられたのは1941年の夏も終わりの頃のことだった。上海では温暖な神戸の気候とは異なり、夏はその高い湿気に冬はその厳しい寒さに悩まされた。人々もその苛酷な気候や生活難から外国人に優しくする余裕がなかったためか国際都市で外国人が珍しくなかったためか、日本人によって示された好意をこの地で感じることはなかった。
ここでもついてすぐ先住のユダヤ人コミュニティの救済活動ですぐ宿舎を提供されたので夜露は何とかしのげたが失業者のあふれる中で生活の糧をさがさのは決して楽な事ではなく、米の配達などをしながらどうやら口に糊すると言った毎日が続いた。 それでも若かったし、自由に動き回って命に危険を感じないで生きていけるという生活はすばらしかった。そんなある日突然日本政府からユダヤ人難民は全員即刻ハンキューという地区に移住するようにとの指令が出される。 この指令が出された原因については当時ランチャートさんたち には知らされていなかったが「Fugu Plan」ではその背景が次のように説明されている。

1941年の夏、ちょうどランチャートさんたちが上海に渡った頃、ドイツではヒムラーによって計画された「ファイナル・ソリューション(全ユダヤ人の抹殺)」がナチスの政策として実施されることになった。 大量殺戮の為の設備がヨーロッパの至る所に設置され、政策は着々と実行にうつされていったが、ナチスにとって問題はアジアだった。 同盟国である日本政府がユダヤ人に対して自分たちと同じ行動を取らないからである。 しびれを切らしたヒムラーは、1942年6月、東京にいたゲシュタポのチーフ、メイシンガーをアジアの中でもっともユダヤ人が集中していた上海に送る。 メイシンガーはワルシャワでは約10万人のユダヤ人を殺したといわれ、『ワルシャワの肉屋』と呼ばれていた男だった。

メイシンガーは、日本のユダヤ人難民問題担当官に対して、「ファイナル ソリューション」の必要性を力説したあと、ユダヤ人を一網打尽にするにはユダヤ教の新年であるロシャー・ハシャナー =その年は9月1日の日没からはじまることになっていた= の日にシナゴーグを外から取り巻くことだと提案する。 捕らえた後は、ぼろ屑のように殺してしまうか、服をはいでぼろ船に乗せ、大洋の上で死ぬまで漂よわせる、あるいは塩掘りなどの強制労働にかりたてるか、強制収容所でモルモットにするなどの方法もあるとドイツでの経験をもとにアジアにおける「ユダヤ人問題の最終解決案」を提唱したのだった。
しかしこの提案はその場に同席した若い日本の副領事が日本人に絶対にそんなことをさせてはならないと、ユダヤ人コミュニティのリーダーにその内容を打ち明けた(彼はそのため上海から追放された)ことから,日本政府の知るところとなりただちに却下された。 その代わりに政府はアジアで最初のゲットーを上海に作ることで同盟国であるナチスへの義理を果たそうとしたのだった。

ゲーットーでは出入りのたびに許可証の提示が必要とされた。 毎日の生活は狭い所に折り重なって寝起きするようなみじめさだったことに加え、真珠湾攻撃後の日米開戦以降はアメリカのユダヤ救済機関からの援助がとだえたため、仕事にありつけない日はほとんど食べ物を口に出来ない日というも少なくなかった。 ここまで生きのびながら明日に希望を失って自殺する人もいた。

アメリカへ

ランチャートさんは、そうした上海での生活は決して楽とはいえなかったが、ヨーローパに残されたユダヤ人の大半がナチスによって殺されてしまったことを思えばそれでも感謝に値するものだったという。 兄弟は戦後2年たった1947年、ついにアメリカへの入国を認められる。 ドイツを追われて以来9年の歳月が流れていた。 それでも生きてアメリカの地が踏めたことは本当にすばらしいことだった、この喜びを与えてくれた日本には今でも感謝していると、ランチャートさんは私の手を強くにぎりしめながらその長い話を終えたのだった。

ランチャートさんの話を聞いたり、「Fugu Plan」を読みながら、私はユダヤ人であるというだけの理由でこれほどに苛酷な人生をおくらねばならなかった人々の運命をあらためて思い返し、その運命に深くかかわった杉原領事をはじめとする多くの日本人の人道的行動に深い感動を覚えた。 日本では5、6年前から一部の著者たちによってかっての「シオンの議定書」をもとに、ユダヤ人に対する憎悪をかきたてるような本が相次いで出版されているが、こうした虚欺で固められた本の生み出す危険さが懸念されるにつけ、他者を救うために自らの命をかけた日本人のありかたやその行動がもたらした結果について今こそ広く語られるべきではないのかと思わずにはいられない。

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❢❢❢ 退官後の苦悩 ❢❢❢ 

日本の敗戦、幼子を抱えて欧州からシベリア経由での帰国。 そして、外務省からの懲戒免職的な退官=1946年=。 この年から1986年(昭和61年)7月31日に86歳でその生涯を閉じるまで杉原千畝の後半生は苦悩の連続であり、心が休まる時は無かった。「杉原はユダヤ人に金をもらってやったのだから、金には困らないだろう」という悪意に満ちた中傷から、亡命ユダヤ人・ニシュリ=新生イスラエルの参事官=による千畝の名前の照会時の杓子定規の対応まで、旧外務省関係者の千畝に対する敵意と冷淡さは、河野洋平外務大臣による名誉回復がなされるまで一貫していた。

退職60年後の2006年、リトアニアで杉原千畝が執った勇気ある行動が日本で広く知られるようになり、 【懲戒処分したのは許しがたし】と言う世論が確立されつつあることに対し、日本政府も重い腰を上げる。 3月25日、「(杉原氏は、)訓令違反により外務省を解雇された」とする説を否定、「保管文書で確認できる範囲では、懲戒処分が行われた事実はない」と言う異例の閣議決定を発表した。しかしながら、文書が残っていないと言えども、【処分】がなかったと断定することが可能だろうか。

外務省きってのロシア語の使い手で、八年間 ヨーロッパで公使・領事館勤務を優秀なる実績で勤務を果たし、外交を経験熟知した人材を、人員削減の折とはいえ、このような形でリストラの対象にするのは説明に窮すると主張する人がすかないのもうなずけるが・・・・・。 なにより、幸子夫人が外務省に対して、怒りを封印してその後の人生を送ったという事実が、外務省の冷酷な仕打ちが実際に行われたことを証明していると考えるのが自然ではないだろうか。

こうした外務省の姿勢に真っ先に抗議したのは、ドイツ人のジャーナリスト、ゲルハルト・ダンプマンだった。ダンプマンは、旧西ドイツのテレビ協会の東アジア支局長を務め、1974年から1981年まで東京に在住していた。 千畝への献辞の付いた『孤立する大国ニッポン』のなかで、「戦後日本の外務省が、なぜ、杉原のような外交官を表彰せずに、追放してしまったのか、なぜ彼の物語は学校の教科書の中で手本にならないのか(このような例は決して他にないというのに)、なぜ劇作家は彼の運命をドラマにしないのか、なぜ新聞もテレビも、彼の人生をとりあげないのか、理解しがたい」と、ダンプマンは抗議したのである。 それは、千畝がまだヤド・ヴァシェム賞を受賞 (1985) しておらず、幸子夫人による回想録の初版 (1990) も出版されていない、1981年(昭和56年)のことであった。

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  傷心の杉原千畝が外務省を依願退職した後、さらなる不幸が杉原家を襲った。 1946年11月に三男・晴生が少児ガン(白血病)により急逝、わずか7歳 あまりにも突然の最期だった。 更に、翌年 妹の節子(菊池節子、ロシア文学者・小沼文彦の夫人)も病に倒れ、この世を去った。 杉原家にとっては呪われた一年を千畝は耐えた。 また、外務省からの退職金などは瞬く間に生活費に消え、戦後の混乱の中で杉原家は困窮する。

ようやく、千畝たちが希望の光を感じるようになったのは49年になってからだ。 四男・伸生(ノブキ)が誕生、50年には進駐軍のPX(Post_Exchange/売店、現在の松屋デパート)の総支配人に推薦され、経済的には安定するようになった。 その後、アメリカ系貿易会社、NHK国際局、ニコライ学院でのロシア語教師の職などを転々として、60年からは商社のモスクワ駐在員になっている。

1960年(昭和35年)に川上貿易のモスクワ事務所長、1964年(昭和39年)に蝶理へ勤務、1965年(昭和40年)からは国際交易モスクワ支店代表などモスクワでの海外生活を送った。 75歳で退職するまでの15年間、モスクワで単身赴任の生活を送っていたのである。 得意のロシア語をいかせる仕事に就けたことが、せめてもの救いだったと言えるであろう。

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動画 ; 杉原千畝:A Japanese Holocaust Rescuer
https://www.youtube.com/watch?v=KA_xNVtRsjo&feature=player_embedded

前節へ移行 ; https://thubokou.wordpress.com/2015/08/27/

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