杉原千畝が専行、「命のビザ」=15=

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❢❢❢ 45年目の“ご褒美” ❢❢❢ 

杉原千畝が日々の糧を得るため、忙しく働いていた。 藤沢の自宅に、東京のイスラエル大使館から一本の電話が入った。 カウナスで千畝との“ビザ発給”交渉に当たった最初の五名の代表者のうちの一人、ジュホシュア・ニシュリが参事官として東京に赴任して来ており、杉原千畝の行方をついに突き止め、連絡してきたのである。 1968年(昭和43年)夏のこと。

「杉原ビザ」受給者の一人で、新生イスラエルの参事官となっていたニシュリ (B. Gehashra Nishri) と28年ぶりに大使館で再会。 カウナス駅頭で「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」と叫んだかつての青年は、杉原夫人の「手をとり固く握って涙を流して喜ん」だ。 外国人にも発音しやすいように、千畝は難民たちに「センポ・スギハラ」と名前を教えており、その名前を外務省に照会しても「該当者なし」とのことであった。 しかし、難民たちの消息を気にかけていた千畝が、以前イスラエル大使館に足を運び自分の住所を教えていたため、ニシュリは千畝を探し出すことができたのだ。

大使は、千畝の四男・伸生をイスラエルのヘブライ大学への公費留学生として迎えることを約束し、そして 翌年に千畝もイスラエルに招く手配をした。 1969年(昭和44年)、イスラエルの宗教大臣となっていたゾラフ・バルハフティクとエルサレムで29年ぶりに再会した。 この時初めて、今日誰でも閲覧できる本省との電信のやりとりが明かされ、失職覚悟での千畝の独断によるビザ発給を知ったバルハフティクが驚愕する。 後のインタビューで、バルハフティクはこう語っている。

≪実際には、日本政府の許可なしであったことを私たちが知ったのは、1969年に杉原氏とイスラエルで再会した時である。 杉原氏が訓命に背いてまで、ビザを出し続けてくれたなんてことは、再会するまで考えられなかったので、とても驚いたことを覚えている。  杉原氏の免官は疑問である。 日本政府がすばらしい方に対して何もしていないことに疑問を感じる。 賞を出していないのはおかしい。 表彰していないのは残念である。 杉原氏を支持している方は多くいるが、私は20年前から、日本政府は正式な形で杉原氏の名誉を回復すべきだといっている。 しかし日本政府は何もしていない。 大変残念なことである。≫

後年の1985年に、日本人として初めて、千畝はイスラム政府から【諸国民の中の正義の人賞=ヤド・パシェム賞=】が贈られたのである。 彼は決して自分がカウナスでとった行動を自慢したりはしなかった。 また、外務省に抗議したりすり事もしなかった。 さまざまな思いは自分ひとりの胸におさめて静かに生きてきた。妻の幸子も彼の生き様を静かに見守ってきた。 長い年月を経て、イスラエル国民からこのように評価された事には意外であったろう。 だが、大きな喜びであったろう。天は見ていて下されたのだ。

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そして、翌年に他界するのであるが、日本政府による公式の名誉回復が行われたのは、21世紀も間近の2000年10月10日になってのことだった。
≪これまでに外務省と故杉原氏の御家族の皆様との間で、色々御無礼があったこと、御名誉にかかわる意思の疎通が欠けていた点を、外務大臣として、この機会に心からお詫び申しあげたいと存じます。 日本外交に携わる責任者として、外交政策の決定においては、いかなる場合も、人道的な考慮は最も基本的な、また最も重要なことであると常々私は感じております。 故杉原氏は今から六十年前に、ナチスによるユダヤ人迫害という極限的な局面において人道的かつ勇気のある判断をされることで、人道的考慮の大切さを示されました。 私は、このような素晴らしい先輩を持つことができたことを誇りに思う次第です。≫

— 2000年10月10日の河野洋平外務大臣による演説

ここに至るまでの経緯を述べてみよう(一部は記述済み)。 杉原千畝は1975年(昭和50年)に国際交易モスクワ支店代表を退職して日本に帰国した。 1977年(昭和52年)、神奈川県鎌倉市西鎌倉に転居した。

「杉原はユダヤ人に金をもらってやったのだから、金には困らないだろう」という悪意に満ちた中傷から、ニシュリによる千畝の名前の照会時の杓子定規の対応まで、旧外務省関係者の千畝に対する敵意と冷淡さは、河野洋平外務大臣による名誉回復がなされるまで一貫していた。 こうした外務省の姿勢に真っ先に抗議したのは、ドイツ人のジャーナリスト、ゲルハルト・ダンプマンだった。 ダンプマンは、旧西ドイツのテレビ協会の東アジア支局長を務め、1974年から1981年まで東京に在住していた。

千畝への献辞の付いた『孤立する大国ニッポン』のなかで、「戦後日本の外務省が、なぜ、杉原のような外交官を表彰せずに、追放してしまったのか、なぜ彼の物語は学校の教科書の中で手本にならないのか、なぜ劇作家は彼の運命をドラマにしないのか、なぜ新聞もテレビも、彼の人生をとりあげないのか、理解しがたい」と、ダンプマンは抗議したのである。 それは、千畝がまだヤド・ヴァシェム賞を受賞 (1985) しておらず、幸子夫人による回想録の初版 (1990) も出版されていない、1981年(昭和56年)のことであった。

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1985年(昭和60年)1月18日、上記のごとく、イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で日本人では初で唯一の「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を受賞。 千畝の名前が世に知られるにつれて、賞賛とともに、政府の訓命に反したことに関して、「国賊だ、許さない」など中傷の手紙も送られるようになった。

同年11月、エルサレムの丘で記念植樹祭と顕彰碑の除幕式が執り行われるも、心臓病と高齢は千畝の海外渡航を許さず、千畝に代わって四男・伸生が出席した。 そして、1986年(昭和61年)7月31日、86歳でその生涯を閉じた。 享年86。 カウナスで運命の決断を下した夏から数えて46回目の夏が訪れていた。
千畝の死を知るや、駐日イスラエル大使のヤーコブ・コーヘンが駆けつけ、葬儀には、かつてのハルビン学院の教え子やモスクワ駐在員時代の同僚など、生前の千畝を知る三百人余が参列。 通夜には、一人の男性が新聞で知ったということで訪ねて来た。 その男性は肉体労働をしているらしい様子で、紙には千円札がきちんとたたまれており、幸子夫人に紙に包んだ香典を渡すと、名前を聞いても言わずに帰って行った。

千畝は、神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園(29区5側)に葬られた。 杉原の発給したビザに救われ、カウナスを通ってアメリカに渡ったゼルは、千畝が外務省を辞めるに至った経緯を知って憤慨し、病躯をおして長文の手紙を幸子夫人に送り、「日本に行って外務省に抗議する」旨を伝えた。

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https://youtu.be/064Y2Zj9Df8
動画 ; 6000人の命を救った外交官・杉原千畝~命のビザの物語

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