地中海で戦った日本・特務艦隊=01=

08-31-1

☛ ☞  第一次世界大戦勃発 

1914年(大正3年)7月28日、オーストラリアがセルビアに宣戦を布告した。 これが、人類が始めて経験する「世界大戦」の幕開けになるだろうとは、いったい誰が想像し得たであろうか? 帝政ロシア、ドイツ、フランス、そして英国と、・・・・・各国の思惑に反して、ヨーロッパの大国が次々と戦いの渦へと飲み込まれていった。

当時のヨーロッパ列強は複雑な同盟・対立関係の中にあった。 列強の参謀本部は敵国の侵略に備え、総動員を含む戦争計画を立案していた。 1914年6月、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が銃撃されるというサラエボ事件を契機に、各国の軍部は総動員を発令した。 各国政府および君主は開戦を避けるため力を尽くしたが、戦争計画の連鎖的発動を止めることができず、瞬く間に世界大戦へと発展したとされる。

各国はドイツ・オーストリア・オスマン帝国ブルガリアからなる中央同盟国と、三国協商を形成していたイギリスフランスロシアを中心とする連合国の2つの陣営に分かれ、日本イタリアアメリカ合衆国も後に連合国側に立ち参戦した。多くの人々は戦争が早期に=クリスマスまでには=終結すると楽観していた。 しかし、機関銃等 銃器の組織的運用等により防御側優位の状況が生じ、弾幕を避けるために塹壕を掘りながら戦いを進める「塹壕戦」が主流となったため戦線は膠着し、戦争は長期化した。 この結果、大戦参加国は国民経済を総動員する国家総力戦を強いられることとなり、それまでの常識をはるかに超える物的・人的被害がもたらされた。

1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の世継、フランツ・フェルディナント大公が、共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ=ボスニア=の首都サラエボで「青年ボスニア(Mlada Bosna, ムラダ・ボスナ)」のボスニア系セルビア人で民族主義者のガヴリロ・プリンツィプにより暗殺された。 オーストリアのレオポルト・ベルヒトルト外相は懲罰的な対セルビア戦を目論み、7月23日セルビア政府に10箇条のいわゆるオーストリア最後通牒を送付して48時間以内の無条件受け入れを要求した。

08-31-2

 セルビア政府はオーストリア官憲を事件の容疑者の司法手続きに参加させることを除き、要求に同意したが、オーストリアはセルビアの条件付き承諾に対し納得せず、7月25日に国交断絶に踏み切った。 躊躇するハンガリー首相イシュトヴァーン・ティサと皇帝の反対を押し切る形で、7月28日にセルビアに対する宣戦布告が行われた。

ドイツ政府は、三国同盟に基づいて対応を相談したオーストリアに対し、セルビアへの強硬論を説いた。 ロシアの総動員下令を受けて、参謀総長小モルトケはかねてからのシュリーフェン・プランを発動させて8月1日総動員を下令し、同時にベルギーに対し無害通行権を要求した。 ドイツ政府は翌2日にロシアに対して宣戦布告し、さらに3日にはフランスに対して宣戦布告した。

ロシア政府は1909年に、オーストリアのボスニア併合を承諾する代わりにセルビア独立を支持することを誓約していた。 オーストリアのセルビアへの宣戦布告を受けて、ロシア軍部は戦争準備を主張し皇帝ニコライ2へ圧力を掛けた。 ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とロシア皇帝ニコライ2世の間の電報交渉は決裂。 ロシア政府は、部分動員では手遅れになる可能性を想定し、7月31日に総動員令を布告した。 ドイツはロシアに動員解除を要求したが、ロシア政府は動員を解除した場合には短期間で再び戦時体制に戻すことは難しいと考えたため、要求に応じなかった。

フランスでは、1914年7月31日に社会党の指導者のジャン・ジョレスが右翼のラウール・ヴィランに暗殺され=ジャン・ジョレス暗殺事件=されたのを機に、8月1日に総動員を下令し、対ドイツ戦を想定したプラン17と称される戦争計画を発動した。 8月4日、首相ルネ・ヴィヴィアニは、議会に戦争遂行のための「神聖同盟/Union sacrée」の結成を呼びかけた。 議会は、議案を全会一致で可決し、全権委任の挙国一致体制を承認した。

イギリス政府は、ドイツ軍のベルギー侵入を確認すると、外交交渉を諦め、8月4日にドイツに宣戦布告し、フランスへの海外派遣軍の派遣を決定した。 また、1867年に自治領となっていたカナダも、宗主国イギリスに従い参戦した。 同様にオーストラリアやニュージーランドも参戦することとなる。

08-31-3

日本は日英同盟によりイギリスと同盟関係にあった。 開戦に際して、イギリス政府からの要請を受け、連合国側として第一次世界大戦に参戦した。 内閣総理大臣大隈重信は、イギリスからの派兵要請を受けると、御前会議にもかけず、議会における承認も軍統帥部との折衝も行わないまま、緊急会議において要請から36時間後には参戦の方針を決定した。 大隈の前例無視と軍部軽視は後に政府と軍部の関係悪化を招くことになる。 日本政府は8月15日、ドイツに対し最後通牒というべき勧告を行った。 日本政府が参戦に慎重だったことから異例の一週間の期限が置かれたが、結局ドイツが無回答の意志を示したため、日本政府は23日に対ドイツ宣戦を布告した。

イタリアでは参戦に対して、賛否が分かれた。 1882年にドイツ・オーストリア・イタリアから成る三国同盟を締結していたが、「未回収のイタリア」と呼ばれたオーストリアとの間の領土問題から亀裂が生じていたからである。同盟では、ドイツとフランスが交戦した場合、軍団をライン地域に派遣することになっていた。 これに従って、参謀総長ルイージ・カドルナが軍団派遣を準備し、国王もそれを了承した8月2日、イタリア政府は中立を表明した。 その後、イギリス・フランスと接近し、1915年に連合国側に立ち参戦した。

オスマン帝国は数度にわたる露土戦争においてロシアと対立関係にあり、中央同盟国に加わった。

北欧諸国は大戦中一貫して中立を貫いた。 1914年12月18日、スウェーデン国王グスタフ5世は、デンマーク、ノルウェーの両国王をマルメに招いて三国国王会議を開き北欧諸国の中立維持を発表した。 これらの国はどちらの陣営に対しても強い利害関係が存在しなかった。 スウェーデンにおいては親ドイツの雰囲気を持っていたが、これも伝統的政策に則って中立を宣言した。 ただしロシア革命後のフィンランド内戦において、スウェーデン政府はフィンランドへの義勇軍派遣を黙認している。

アメリカ合衆国は当時モンロー主義を掲げ、交戦国との同盟関係は無かった。 さらに開戦時にアメリカは中米諸国においてメキシコ革命に介入するなど軍事活動を行っていたため、当初は中立を宣言していた。 政府のみならず、国民の間にも孤立主義を奉じる空気が大きかった。 大戦中には両陣営の仲介役として大戦終結のための外交も行なっていた。 しかし後にルシタニア号事件やドイツの無差別潜水艦作戦再開、ツィンメルマン電報事件を受け、世論ではドイツ非難の声が高まり、1917年に連合国側に立って参戦した。 ただし、フランスやイギリスが敗北した場合に両国への多額の貸付金が回収できなくなることを恐れたとの見方もある。

08-31-4

===== 続く =====

前節へ移行 ; https://thubokou.wordpress.com/2015/08/30/

後節へ移動 ; https://thubokou.wordpress.com/2015/09/01/

※ 下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行

                         *当該地図・地形図を参照下さい

 

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

【疑心暗鬼;民族紀行】 http://bogoda.jugem.jp

【浪漫孤鴻;時事心象】 http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【閑仁耕筆;探検譜講】 http://blog.goo.ne.jp/bothukemon/

【壺公慷慨;歴史小説】 http://ameblo.jp/thunokou/

ブログランキング・にほんブログ村へ クリック願います