地中海で戦った日本・特務艦隊=02=

09-01-1

☛ ☞  同盟国・英国の要請

先の見えない世界大戦の只中で、地中海への大日本帝国の海軍派遣を要請したのは、1917年(大正6)のこと。 世界大戦(第一次)は末期の頃である。 ドイツによる無制限潜水艦作戦が展開され、連合軍の輸送船団に被害が及んだことから、イギリスは日英同盟を理由に日本へ船団護衛部隊の派遣を要請した。 海軍省は難色を示す軍令部を押し切って派遣に応じることを決定した。

その背景として、日本陸軍のヨーロッパ戦線派遣要請や金剛型巡洋戦艦の貸与要請を拒絶し、一方で「対華21ヶ条要求」をはじめ中国への進出を推進してきた日本に対する不信感が高まっていたという情勢が考慮されていた。 3個艦隊を編制し、イギリス勢力圏に派遣された。 なお、いずれも特設の艦隊であるため、司令部を持たず、指揮官は司令長官ではなく司令官である。

第一特務艦隊(一特)は、インド洋横断航路の護衛を担当するため、航路の両端にあたるシンガポールとケープタウンに分散配置された。 イギリス帝国のアフリカ=インド=オーストラリアを結ぶ重要な航路ではあるが、インド洋に拠点を持たないドイツにとって攻撃は非常に困難であったため、実戦の機会が特に少ない名目上の護衛艦隊である。 1917年末に第三特務艦隊を吸収した。 1919年にはインド洋護衛任務からはずれ、1919年12月1日をもって、大陸駐留部隊である第一遣外艦隊に改編し、活動の場を揚子江流域に移した。

第二特務艦隊(二特)は、地中海縦断航路の護衛を担当するため、マルタ島に派遣された。オーストリア=ハンガリー帝国海軍の軍港があるアドリア海は、オトラント海峡にて封鎖(オトラント海峡封鎖)されていたが、オーストリア海軍やドイツ海軍の潜水艦は隙間から地中海に出撃して通商破壊を実施していた。3個特務艦隊の中でもっとも危険な海域に派遣されたのが第二特務艦隊である。

09-01-2

  地中海におけるドイツ軍潜水艦Uボートから輸送船舶を護衛するのが主なる任務であった。 派遣されたのは下記のように巡洋艦「明石」=後に「出雲」と交代=を旗艦に駆逐艦8隻であった。

【本編のテーマである第二特務艦隊(二特)は、1年半の派遣期間中に、雷撃を受けた駆逐艦「榊」乗組員をはじめ78名の死者を出した。 本艦隊の拙いが懸命な護衛は、連合軍諸国からも高く評価され、佐藤司令官は各国元首から賞賛され、謁見を許可されている。 1921年、摂政裕仁親王は、訪欧の際にマルタ島の二特戦死者慰霊碑への訪問を強く要望し、英霊を弔っている。】

  第二特務艦隊(二特)の編制(1917年12月の編制)は・・・・・・・

出雲(旗艦) / 第十駆逐隊(樺型駆逐艦桂・楓・梅・楠)/ 第十一駆逐隊(樺型駆逐艦榊・柏・松・杉) / 第十五駆逐隊(桃型駆逐艦桃・樫・檜・柳)

歴代司令官 / 佐藤皐蔵少将(1917年2月7日-1919年7月20日解隊)

第三特務艦隊(三特)は、ANZAC連絡航路の護衛を担当するため、シドニーに派遣された。 ドイツ勢力圏外のオーストラリアを担当するための、実質1個戦隊だけからなる形式上の艦隊派遣である。 他の特務艦隊に2ヶ月遅れて1917年4月13日、第四戦隊を改称して派遣した。 わずか半年で護衛任務を解かれ、第一特務艦隊に編入されて解散した。

09-01-3

❢❢❢ 特務艦隊出動❢❢❢ 

大正6(1917)年2月18日午後1時、片岡覚太郎・中主計(後の主計中尉、以下、片岡中尉と略す)の乗った駆逐艦「松」は3隻の僚艦とともに佐世保港を出発した。 港に停泊している艦船では、乗員が艦上に整列し、帽子を振って見送っている。 出港する4艦の乗組員もこれに答礼する。

駆逐艦4隻からなる第11駆逐隊は、これからシンガポールに行き、南シナ海からインド洋方面を警備している巡洋艦「明石と駆逐艦4隻に合流する。 そこからインド洋を渡り、スエズ運河経由で地中海に進出し、暴れ回るドイツ軍の潜水艇からイギリス・フランスの輸送船を護衛する任務に就くのである。 1914年に始まった第一次世界大戦はすでに4年目に入っていたが、膠着状態が続く中で、日英同盟に基づくイギリスの支援要請に応えるためである。

これまでもスエズを越して地中海に入った日本の軍艦は多かったが、いずれも新造艦の回航とか国際儀礼を目的としたもので、実戦に向かうのは今回が初めてである。 日本帝国海軍創設以来の壮挙に向かう艦隊の士気は高かった。 4月13日、2ヶ月近くの航海の後に、艦隊は地中海のマルタ島に入港した。 ようやく特務艦隊が辿り着いた地中海は「間の海」と化していた。 ドイツがUボートによる無制限潜水艦作戦=指定する戦闘海域内の船舶を無制限に攻撃する=を宣言し、連合国側の輸送船舶被害が激増していた。

かくして、連合国が心待ちにしていた第二特務艦隊は、マルタ到着の翌々日から対潜水艦作戦の勤務を開始した。この日以降、第一次世界大戦が終了するまでの約一ヶ年半に第二特務艦隊が護衛出動回数は348回、護送した軍艦、輸送艦は主に英国籍で延べ788隻。また、護送した人員は75万人に及ぶことになる。

長靴の形をしたイタリア半島のつま先にある シシリー島のさらに南部にマルタ島は位置する。 ちょうどアフリカ大陸もやや北に張り出して、地中海が最も狭くなる海峡に近い。 東西方向では地中海の中央に位置し、まさに地中海の制海権を握るには絶好の要衝である。 英国はこの島を1814年にフランスから獲得し、それ以来、英国海軍の地中海における一大基地としていた。

日本艦隊はここを基地として英国海軍とともに英仏運送船の護送にあたる事となった。 イギリス、フランス、イタリアの各国艦隊は、地中海の制海権を握り、オーストリアとトルコの艦隊をそれぞれの母港に封鎖していた。しかし、ドイツの潜水艇は厳重な封鎖線を突破して、輸送船を手当たり次第に沈めて、暴れ回っていた。 そのため輸送船護送と潜水艇攻撃が、海上作戦の中心であった。

日本艦隊の8隻の駆逐艦は、護送任務や、襲われた輸送船の緊急救助にと、マルタ港にゆっくり停泊している暇もない多忙な日々を送るようになった。

09-01-4

前節へ移行 ; https://thubokou.wordpress.com/2015/08/31/

後節へ移動 ; https://thubokou.wordpress.com/2015/09/02/

                         *当該地図・地形図を参照下さい

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

【疑心暗鬼;民族紀行】 http://bogoda.jugem.jp

【浪漫孤鴻;時事心象】 http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【閑仁耕筆;探検譜講】 http://blog.goo.ne.jp/bothukemon/

【壺公慷慨;歴史小説】 http://ameblo.jp/thunokou/

ブログランキング・にほんブログ村へ クリック願います 

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中